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私から見た大阪交響楽団史

   
第 7 回 チャイコフスキー「交響曲第4番」の迫力ある演奏に度胆を抜かれる
松田 一広  朝日新聞社広告局(当時)

1994年4月の神戸朝日ホールのオープニング・イベントに関連して、「いいオーケストラを知らないか」と相談されたので、「大阪シンフォニカー(現・大阪交響楽団)を知っている? いいらしいよ」と、僕は一度も聴いたことがないのに推薦すると、「マッちゃんが勧めるなら」ということになった。
それで、実際に聴いたうえで決めようということになり、1993年5月1日のブラームス「第1番」と、5月6日のチャイコフスキー「第4番」(いずれもトーマス・ザンデルリンク指揮)を聴くことになった。2曲ともよく知っているから、オーケストラの実力を測るにはもってこいだった。ブラームスは僕一人で、チャイコフスキーは神戸朝日ホールの責任者の藪内正巳氏(1991年までフェスティバルホールの支配人をしていた関西の興行界では知る人ぞ知る)と一緒に聴いた。そして、びっくりした。
ブラームス「第1番」は第4楽章が圧巻だった。聴いているうちに、自分の頬が紅潮してくるのがよく分かった。でも、こうなるのは当然。それだけの曲だから。いろんな意味で「予想通り」というのが、大阪シンフォニカーの第一印象だった。
チャイコフスキー「第4番」はクルト・ザンデルリンク指揮、ベルリン・フィルのビデオを二度聴いたうえで臨んだ。片や世界最高峰のオーケストラ、こっちは「いつの間にプロになったのか」と思っていた大阪シンフォニカー。ビデオと生の違いがあるが、大阪シンフォニカーのほうが僕の胸に飛び込んできた。「心臓をわしづかみにされるほど度胆を抜かれ…」と感想を書いたが、その気持ちは今でも変わらない。
お世辞にもスマートな指揮とは言えないトーマス・ザンデルリンクに、強引なまでにリードされた大阪シンフォニカーの面々は、「無」の境地で演奏したのではないか。「気がつけば終わっていた」「マエストロの言う通り、必死にやっただけ」というのが、本当だと僕は思う。メンバーの個々の力量はまだまだと思うが、集団の力を思う存分に発揮した時の総合力は、彼らの実力をはるかに超えていたと言っては失礼だろうか。でも、僕はそのように感じ、神戸朝日ホールのオープニング「前夜祭」に自信を持って大阪シンフォニカーを推薦することが出来た。
 
記憶に残るオーケストラを目指して全力を
1993年に聴いたブルックナー「第4番」も第3楽章から突然良くなり、第4楽章との休みで客席に「フーッ」と溜め息が流れたのがとても印象的だった。わが娘は「今日はアンコールをしないほうがいい」と言った。それほどの出来だった。ブルックナーは大阪シンフォニカーにとって初めての演奏だったそうだが、それを微塵も感じさせない新鮮な演奏だった。快適なテンポ、ブルックナーに馴染みがない人にも大きな贈り物になったと思う。まさしく「ザンデルリンク流のブルックナー」だった。
でも、これぐらいの演奏内容だけなら、「大阪シンフォニカーは記憶に残るオーケストラ」とは言いがたい。聴衆に期待を抱かせる何かがないといけない。一番団員に理解していただきたいこと、それはアンコールについてである。
チャイコフスキー「第4番」での聴衆の感動と熱狂ぶりはすごかったが、それ以上にすごかったのは第4楽章をアンコールで全部演奏し直したことである。コンサートマスターが弓をステージに置いたので、「第3楽章をやるのかな」と思っていたが、ザンデルリンクがメンバーに「違う。第4楽章をやるんだ」と何度も指示した。それを見た管楽器奏者が、お互いに顔を見合わせ、「本当にやるの?」。そのやりとりが面白かった。そして「これぞ、本当のアンコール!」だと思った。
アンコールは上手とは言えなかったが、その気持ちが僕は嬉しかった。聴衆も沸きに沸いた。管楽器奏者は「息も絶え絶え」で、「よくぞ演奏してくれた」と思う。あのアンコールは、どんなに賞賛しても、しすぎることはない。聴衆の歓呼と万雷の拍手は、大阪シンフォニカーの面々に対する感謝の気持ちの表れだった。オーケストラと聴衆の心が太い糸で結ばれた。
次はショスタコーヴィチ「第5番」。その時も第3楽章をアンコールしてくれた。驚いたのは、アンコールが終わってから「モスクワ4人組」の紹介も兼ね、モーツァルトの「ディヴェルティメント」を演奏してくれたことである。
1993年9月に来日したばかりの「モスクワ4人組」の日本デビューを飾らせる粋な計らいで、心温まる演出だった。「4人組」の演奏終了後、ザンデルリンクが再びステージに姿を現し、挨拶したのを見て、彼の人間的優しさを垣間見ることが出来た。
 
「大阪シンフォニカー精神」の神髄を見る
大阪シンフォニカーの「神髄」に触れたのはジルヴェスター(1993年いずみホールでの特別演奏会)でのロビー・コンサートだった。僕があるオーケストラを支援し始めて3年続けて言ってきたことだが、「年に一度、団員がロビーで「この1年、ありがとうございました」と聴衆に挨拶したらどうか。演劇の世界では日常行われていることだよ」。でも、彼らはこんな素人っぽい意見に耳を貸そうとしなかった。
だから、同じことを敷島代表に言った。「ジルヴェスターで団員がロビーに出て『蛍の光』でも歌ってみたら。お客さんは親近感が湧き、来年も大阪シンフォニカーを聴いてみよう、という気持ちに必ずなるから。挨拶するだけでいい。歌えばもっといいけどね」と言って、僕はいずみホールに向かった。
コンサートが終わるとすぐ、弦と管の奏者20数人がロビーの階段に並び、「蛍の光」を演奏し始めた。お客さんは誰一人帰らず、「蛍の光」の大合唱となった。打楽器の花石さんが鈴を振り振り現れると、楽しさが倍加した。心温まる交流の場となり、聴衆への何よりも素敵で小粋なプレゼントとなった。
ここに、大阪シンフォニカーが会場を満席にする秘密が隠されているように思う。上手な演奏だけでは、聴衆を満足させられても、大阪シンフォニカーの演奏を聴いたことがない「未開拓の聴衆」に、会場へ足を向けさせることは無理だと思う。
では、どうすればいいのか。それにはロビー・コンサートがきっと参考になるはず。奇をてらうことなく、コンサートをいろんな方法で盛り上げる。他のオーケストラがやっていないこと、クラシック音楽ってこんなに楽しいものかと思わせること、指揮者や演奏家に親しみを感じさせることなど、聴衆が心から満足出来ることをやり抜くことが、演奏会場を満席にさせる、唯一かつ確実な方法だと、僕は信じている。
聴衆は感動と夢を求め、時間を割き、お金を払って会場に行くのだから、それだけのことをしてもらわないと、「また今度も」という気にならない。「今日は良くなかったけど、次回を期待しよう」とは思ってくれない。大阪シンフォニカーは一回一回が勝負。失敗すれば、それが実力と思われても仕方がない。
大きなフェスティバルホールでも、十分に通用するだけの演奏技術と迫力を身につけるために、日々精進し、力の限りを尽くすことを願うとともに、リハーサルで団員を口汚くののしるザンデルリンクと、おしゃべりな敷島代表に全幅の信頼を置き、愚直に真っ直ぐな道を歩んでほしいと、心から願っている。
(1994年1月4日 記)
 
「プログラム・マガジン」2020年8・9月号掲載 (C)松田一広
 
 
1993年5月1日いずみホール
「ドイツ音楽特集Vol.2」
ロビーにて
左:松田一広氏
右:永久名誉楽団代表 敷島博子
「はじめまして…」
 
1993年5月1日いずみホール
「ドイツ音楽特集Vol.2」
ブラームス 交響曲第1番の演奏を終えて
 
1993年5月6日
ザ・シンフォニーホール
「第33回定期演奏会」
チャイコフスキー 交響曲第4番
 
1993年12月16日
ザ・シンフォニーホール
「第35回定期演奏会」
ブルックナー 交響曲第4番『ロマンティック』
指揮:トーマス・ザンデルリンク(音楽監督・常任指揮者 当時)
 
1993年10月13日
ザ・シンフォニーホール
「第34回定期演奏会」
モーツァルト
『ディヴェルティメント』K.136より
立奏左から/
ライカン・カラグローバ
アンドレアス・アイゼンフート
タマーラ・サムサリエバ
ウラジミール・スミコフスキー
   
第 6 回 大阪シンフォニカー交響楽団 ヨーロッパ公演2002 寺西 肇
寺西 肇 (音楽ジャーナリスト)
 
東欧の未知なる国、その光と影
クリスマスを前に、大通りには幾つもの星形のイルミネーションが輝き、夜の街は一見、華やかに見えた。しかし、昼間になって見れば、中心部には悪名高き独裁者ニコラエ・チャウシェスクが建てた「国民の館」とは名ばかりの巨大な“宮殿”をはじめ、共産主義時代の無機質な建物がそびえ立つ一方、道は穴だらけ。18世紀の歴史的建造物が解体途上で放置されるなど、独裁者の死と民主化から10年以上を経てなお、愚かな都市計画の爪痕がそこここに。かつて「東欧の小パリ」と謳われた、美しい都の面影はなかった。
そんなルーマニアの首都ブカレストに、大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)の総勢62人が降り立ったのは、2002年12月1日のことだった。創立23年目にして初のヨーロッパ公演は、ルーマニアと日本の修好100年を記念し、文化庁の支援事業「二国間文化交流」の一環で実現。このツアーを率いた音楽監督(当時)の曽我大介が、ルーマニア国立放送響の首席客演指揮者も務め、日本で唯一、ルーマニア人奏者を擁するなど、ゆかりが深かったことも、大きな決め手に。新聞社の文化部記者だった筆者は、このツアーを同行取材した。
4日間にわたるリハーサルを経て、一行はまず、12月6日にブカレスト中心部にある国営放送局の「《ミハイル・ジョラ》大コンサートスタジオ」で開かれた演奏会へ臨んだ。会場は「スタジオ」と銘打ちつつ、実際には1300席の立派な大ホール。客席は開演前の早い時間から聴衆で埋まり、関心の高さを伺わせた。また、当初は出席の予定だったイオン・イリエスク大統領は、東欧会議のため惜しくも欠席。しかし、「この演奏会を通じ、100年前に先祖たちが夢見た両国の友好を、未来へと紡いでゆけるのは、とても幸せです」とのメッセージを寄せた。
 
音楽を通じて、進んだ相互理解
ステージは、20世紀ルーマニアの巨匠コンスタンティン・シルヴェストリの「トランシルヴァニアとビホール地方の5つの民俗舞曲」で幕開け。続いて、今回のために間宮芳生へ委嘱した新作「オーケストラのための“地球のともだち”」が世界初演され、尾高尚忠「フルート協奏曲」(独奏:末原諭宜=現・永久名誉団員)、エネスク「ルーマニア狂詩曲第1、2番」を披露。最後は、ルーマニア国立放送響のメンバー60人が加わり、レスピーギの交響詩「ローマの松」が上演され、最後にはスタンディング・オベーションの大喝采を受けた。
「やはり“血”というものは、厳然と存在する気がします。そんなヨーロッパ人としてのアイデンティティを持つ彼らと、気持ちの上で音楽の“感じ方”が変わらなかったのが嬉しかった。僕たちがこれまでやってきたことが間違っていなかった、と実感できました」。終演後、首席ソロコンサートマスターの森下幸路は、確かな手応えを語っていた。
一方で、「日本人の奏者は、とにかく精緻な演奏をすると聞いていたので、内心はびくびくしていた」と笑いながら明かしていたのは、ルーマニア国立放送響のコンサートマスター、ラウレンツィオ・グレゴリスク氏。「でも、実際に一緒に演奏してみると、ハートの部分は全く同じだとすぐに分かった。彼らに学んだ点は、たくさんある。今後の演奏にも、大いに生かしてゆけると思う」と話していた。
また、このステージを聴いた、フランス在住の世界的劇作家で、ルーマニア国営放送の顧問でもあったアスタローシュ・ジョルジュ氏も「大変すばらしい演奏ですね。私にとっては、特に日本人作曲家の作品が、魅惑的に聞こえました」と絶賛。この日の模様は、国営ラジオ放送を通じてルーマニア全土に生中継されたほか、後日、テレビでも放映された。
翌日には中部のブラショフへ移動。ドラキュラ伝説で知られるトランシルヴァニア地方に位置し、12世紀にドイツからの入植者によって作られた中世そのままの美しい街並みで知られる、ルーマニア第2の都市だ。旧市街の北端に位置する、約500席のホール「軍人会館」で12月8日に行われた、大阪シンフォニカー響の単独公演では、ベートーヴェン「交響曲第7番」をメインに、シルヴェストリ、間宮の新作、尾高の協奏曲を披露。サロン風の親密な空間だっただけに、リラックスした好演を聴かせた。
そして翌9日にはブカレストへと戻り、衛星都市プロイエシュティにある300席の中ホール「フィルハーモニカ《パウル・コンスタンティスク》プロイエシュティ」で公演。前日と同じプログラムを披露した。特に、ベートーヴェンでは、いっそう引き締まった快演を展開。「個人のみならず、全体で技術レヴェルが高いのが素晴らしい。一日中聴いても、飽きないだろう」。このホールを拠点とするプロ楽団、プロイエシュティ・フィルハーモニーの楽団長を務めていたビルジル・アノラケ氏も、賛辞を惜しまなかった。

楽団に今も息づく、貴重な経験
一行は12月11日、関西国際空港に帰着した。その直後、楽団代表としてこのツアーを見守り、今年5月2日に惜しくも逝去した敷島博子・永久名誉楽団代表は「ハードな日程だったからこそ、いっそう一丸となって、演奏に取り組む姿勢ができたように思います」と総括。そして、首席ホルン奏者の細田昌宏は「音楽は言葉を超える、というと月並みですが…実際に現地の奏者と、音楽や楽器を介しているだけで、すぐに理解し合えるし、仲良くもなれる。それを再確認できただけでも意味があった」と語っていた。
さらに、「現地の奏者との合同演奏が、何よりも良い経験になった」と話していた楽団員が多くいたのも、印象に残った。中には、副楽団長で首席トロンボーン奏者だった野口伸広(現・永久名誉団員、故人)のように、現地の奏者たちに手配し、大学図書館に眠る共産政権時代の楽譜の発掘や楽器の調査を行ったメンバーも。「今度は、向こうで手に入りにくい楽譜を、こちらから送ってやりたい」と帰国後に話すなど、演奏家同士ならではの絆を深めていたようだった。
共産主義政権下にあっては、演奏旅行で頻繁に国外へ出るなどの特権を持ち、社会的地位に恵まれていたルーマニアの演奏家。しかし、民主化後の経済的・社会的な不安定の影響がいまだ続いていた当時、収入はダウンしたままで、正直、技術レヴェルも高いとは言い難い状況だった。しかし、ルーマニア国立放送響のメンバーをはじめ、ツアー中に出会った、当時のルーマニアの関係者からは、長い文化の歴史を受け継ぐ誇りと、鮮烈な覇気が感じ取れた。
かたや、まだ“若い楽団”だった当時の大阪シンフォニカー響。技術面や音楽性の面では、今日の大阪交響楽団と比較するまでもないほど、まだ“発展途上”の状態だったが、やはり瑞々しい向上心と探究心に溢れていた。そんな彼らが体感した、輝かしい歴史を取り戻そうとするさ中にあった、ルーマニアでの貴重な経験。帰国直後の曽我は「今後の国内での演奏活動に、きっと役立つだろう」と話していた。その“予言”の通り、この時でなければ起こり得なかった“化学反応”が、現在の大阪交響楽団の快演にも大きな、そして好ましい影響を及ぼしていることは間違いなかろう。
 
「プログラム・マガジン」2019年7・8・9月号掲載 (C)寺西 肇
 
 
第6回写真1
記者会見で発言する曽我大介。右は永久名誉楽団代表 敷島博子と現相談役の敷島鐵雄。現地のメディアが多数出席した。(2002年12月2日ブカレスト)
 
第6回写真2
ルーマニア国営放送局「ミハイル・ジョラ」大コンサートスタジオ。合同演奏のゲネプロ(12月6日ブカレスト)
 
第6回写真3
ルーマニア国立放送響コンサートマスター ラウレチラ・グレゴリスクと首席ソロコンサートマスター森下幸路
 
 
 
第6回写真4
ルーマニア最後のステージ(12月9日プロイエシュティ)
 
第6回写真5
軍人会館でのコンサート(12月8日ブラショフ)
 
第6回写真6
歴史的な街並みが残るブラショフ旧市街
 
第6回写真7
終演後に両国の楽団員が記念撮影(12月6日ブカレスト)
 
   
第 5 回 児玉 宏が率いた大阪交響楽団
中村 孝義  (大阪音楽大学名誉教授・音楽学)
 
大阪交響楽団(大阪シンフォニカー、大阪シンフォニカー交響楽団と名前は変わってきているが、ここでは大阪交響楽団という名称で通すことにする)が2020年に創立40周年を迎えるとか。私が大学での音楽学教育や研究以外に、新聞や専門誌に音楽会評や音楽評論を書くようになったのが1990年のことだから、ごく草創期の時代は除いて、大阪シンフォニカーと呼ばれていた時代からこのオーケストラの活動を、音楽評論家としての立場からつぶさに眺めてきたことになる。この40年弱の間にも、指揮台には第2代音楽監督のトーマス・ザンデルリンクを始め様々な指揮者が登場したが、とりわけ私の印象に残っている指揮者といえば、1995年から常任指揮者になり、1997年にシューベルトの生誕200年を記念して全5回にわたる交響曲全曲シリーズを、当時まだそれほど一般的ではなかったピリオド奏法をモダン・オーケストラに転用して演奏する(今でいうHIP)方法で敢行した本名徹次が思い出される。このシリーズは、本名の考え抜かれた解釈と、それを真摯に受け止めたオーケストラの好演はもとより、私が全曲解説を執筆させていただいたことや、毎回指揮者へのインタビュアーを務めたこともあって強い印象に残っている。
しかしそれにも増して私に大阪交響楽団というオーケストラの存在を強く意識させた指揮者が児玉宏だった。彼が音楽監督として大阪交響楽団を率いた8シーズン(2008~2016年)は、私が聴いてきた現在に至るまでの大阪交響楽団の歴史の中で、最も記憶に残る感銘深い時代だったといっても決して過言ではない。児玉は、現在もそうだが、本拠をドイツに置いており、主としてドイツの歌劇場での活動を中心に置いてきた指揮者である。大阪に登場する以前から東京の新国立劇場などには出演していたようだが、私は大阪交響楽団に客演するまでその名前すら認識していなかった。しかし2005年の第97回定期演奏会にブルックナーの交響曲第3番をひっさげ登場したとき、私はまさに驚天動地というより他ないほどの大きな感銘を受けた。大げさと思われるかもしれないが、私は大阪交響楽団がこんなに充実した響きと内実のこもった表現を展開するのをこれまで聴いたことがなかったと同時に、指揮者に人を得られれば、このような音楽を奏でることができる実力を持ったオケだったということにも驚嘆した。
この演奏会が一つのきっかけとなって、その後も彼は大阪交響楽団とブルックナーの交響曲を毎年1曲ずつ取り上げ続け、2008年には音楽監督・首席指揮者に迎えられることになった。ここまで演奏されていたブルックナーの交響曲第3番、第7番、第5番を聴いていた人なら誰もが、音楽監督就任は当然のことと納得したであろう。その後彼がこのオーケストラで展開したことの軸になったのが、ブルックナーの残りの全交響曲をそれぞれに見合った曲を組み合わせながら1年に1曲ずつ取り上げていく「児玉宏のブルックナー」(2016年まで)と名付けられたシリーズであったことは言うまでもない。
大阪には朝比奈隆という巨人によって打ち立てられた豪壮ともいうべきブルックナー演奏の大きな伝統があるが、児玉の解釈はそれとは全く異なるもので、さほど編成の大きくない大阪交響楽団の能力を最大限生かすべく、タイトで引き締まった響きと、細部まで疎かにせず出来うる限りの彫琢を施した緻密な構築を目指しながら、決して小さく纏まらず、極めて内実の豊かな、しかも一瞬も弛緩することのない緊迫感に満ちた、精妙で品位の高い音楽を奏でることに成功していた。それは、ブルックナーの音楽が、一見純朴でありながら、実は徹底的に考え抜かれた哲学性や神秘性を秘めた豊穣な世界であることを目の前に明らかにするものであり、幾度、目から鱗の経験をさせられたことだろう。
しかし彼の真骨頂はブルックナーだけではない。もう一つ忘れてはならないのが、我が国ではほとんど演奏されたことがなかった知られざる作品を「忘れられた作曲家」という名のもとにプログラムに組み込んでいくことだった。アッテルベリ、タネーエフ、ミャスコフスキー、プフィッツナー、マルトゥッチ…。CDでは耳にしたことがあっても、実演ではまず聴けない顔ぶれ。いつの時代にも多くの作品が生み出されるが、時代を超えて残るのはほんのわずか。大部分は淘汰され歴史の波間に沈んでしまう。私自身も、いつしか忘れられた作品には、それだけの価値しかなかったのだと当然のように受け取っていたところがあるが、それは必ずしも正しいことではなかった。作品は何らかの不運な事情によって世から忘れられることもあるし、一度忘れられるとなかなか浮上することができないのがこの世の中の常である。
しかし、いわゆる音楽史の本流から逸れてしまった周辺を認識することで、改めて本流の意味もくっきりと浮かび上がることもある。その意味では、こうした作品を復活蘇演し、その価値を改めて世に知らしめるのも後世の音楽家の重要な役割といえよう。そして児玉は、有名無名を問わず、他の指揮者がほとんどしないことを、まさに音楽家たるものの一つの使命として大阪の地で実践したのである。ごく知られた名曲をあまり取り上げず、ほとんど一般にはその名さえ知られていない作曲家の無名の作品を取り上げるという、児玉の極めて個性的な活動が、それでなくとも有名作品にしかなかなか足を運ばない人が多い大阪の聴衆から大きな反響を得ることができたかといえば、それは容易ではなかったと言わざるを得ない。
結果的にはこの時期、集客は上々とはいかなかったかもしれない。しかしこの種の演奏会には東京からも評論家を始めとして少なくない関係者が度々顔を見せていたように、大阪交響楽団の名やそれを率いた児玉宏の存在感を全国に知らしめたのは間違いのない事実である。それは児玉自身が得た大阪市民表彰文化功労賞や、芸術選奨文部科学大臣賞の受賞が示しているし、またオーケストラとしても音楽クリティック・クラブ賞や、文化庁芸術祭で芸術祭大賞を授与されたことが明確に示している。その意味で大阪の音楽文化を長い目で見たとき、この時代がいかに生命力に満ち、豊穣な時代であったかは自ずと明らかになるように思われる。そしてそれは大阪交響楽団の歴史にとっても、永遠に記憶されるべき一時代となることは間違いないであろう。今後も、大阪交響楽団が、児玉の時代のような志の高い活動を展開して欲しいと願っているのは、筆者だけではあるまい。
 
「プログラム・マガジン」2019年1・2・3月号掲載 (C)中村孝義
 
 
 
児玉 宏
児玉 宏   
 
第120回定期演奏会
第120回定期演奏会【児玉宏のブルックナー“至高幻想響艶”ドイツ・ロマン派の頂点】より。プログラムはラインベルガー「オルガン協奏曲第1番ヘ長調作品137(独奏:鈴木隆太)」とブルックナー「交響曲第5番変ロ長調WAB.105(ハース版)」(2007年9月12日ザ・シンフォニーホール)
 
第16回東京公演
第16回東京公演。ブルッフ:2台のピアノと管弦楽のための協奏曲変イ短調作品88a(独奏:山本貴志、佐藤卓史)(C)三浦興一
 
 
第16回東京公演
第16回東京公演より。(2013年3月16日すみだトリフォニーホール)
 
第16回東京公演
演奏を終えると、楽譜を手によく作曲家を讃えた。(第16回東京公演。スヴェンセン:交響曲第2番変ロ長調作品15の演奏を終えて)
   
第 4 回 大山平一郎と大阪シンフォニカー交響楽団
菊池正和 (朝日放送元ディレクター・プロデューサー)
 
 “大阪に4つのオーケストラはいらない、1つにしてしまえ!”
 2006年、関経連会長の「大阪4オケ不要発言」に関西音楽界は浮足だっていた。どこかのオーケストラが消滅するかもしれない!という危機感を感じた。そこで急遽4つのオーケストラを応援しようという番組を企画した。それが『躍動するOSAKA交響楽』という正月番組となり、大阪の4つのオーケストラの演奏を、初めて同じ番組内で放送した。
 その際、大阪シンフォニカー交響楽団の収録打ち合わせで、博多で大山さんと食事をした。初対面だった。話の途中、過去のロサンゼルス・フィルハーモニックの来日の際に一緒に仕事をしたことがあると判明。大いに盛り上がり、お酒も進んだ。ロサンゼルス・フィルの公演は1982年。巨匠カルロ・マリア・ジュリーニ最後の来日。フェスティバルホールでの演奏会をテレビ収録したのだ。曲目は、運命と悲愴。ポピュラーな名曲2曲。当時ジュリーニは運命を研究し直し十数年ぶりに演奏会で指揮する、ということで気合が入っていた。気持ちの籠もった演奏だった。悲愴ももちろん名演。編集室でジュリーニ・オンリーカメラの映像をチェックしながら、その指揮姿に「かっこいいな!」と思った記憶が甦る。番組で西本願寺にロケに行った。運命の新解釈を語ってもらった。その際、ジュリーニのアテンドをして下さったのが大山さんだった。当時、ロサンゼルス・フィルのヴィオラ首席奏者。日本人で海外オーケストラの首席奏者になったパイオニアだ。
 件の4オケ番組で大阪シンフォニカー交響楽団が演奏したのは、ベルリオーズの幻想交響曲。大山さんのタクトのもと音楽が脈々と息づいて、恋に狂った青年の幻想ストーリーが色鮮やかに現出。この指揮者の創り出す音楽は素晴らしい!と思った。リハーサルでも、フレーズやボウイングなど根本的な細かい指示がたくさん飛んでいた。
 大山さんが指揮をする時のオケの様子は、普段と少し違う。ヴァイオリンのツートップすなわち森下幸路さん林七奈さんが目の色を変えて演奏している。その姿を見て弦パート全員がゴシゴシ弾いている。ヴィオラ弾きの大山さんは弦にうるさい!その雰囲気はビシビシ伝わってくる。それに引っ張られて他のセクションも頑張る。良い相乗効果が生まれている。
 大山さんの音楽は、自身の長い経験から紡ぎ出される懐の深い音楽だ。
 「菊池さん、ベートーヴェンの楽譜の書き方の変遷はわかっていますか?」と突然聞かれ何もわからずドギマギした。そんな門外漢の私にベートーヴェンの記譜法の変遷をわかりやすく説明して下さった。それに触発されて遅ればせながら児島新さんの「ベートーヴェン研究」を読んだりした。
 大山教室は何度もあった。ある時は、お茶を飲みながら、ある時はお酒を飲みながら…今でも思い出すのは、二人でお店を5軒梯子したことがあった。3軒目で楽譜の話になり、ホテルまで楽譜を取りに帰り、そこから教室の始まり。その後、2軒ずっと楽譜の読み方の話。これは凄い体験をしているな、と感じながらお付き合いさせて頂いた。また、ある演奏会では、主催者が「演奏の御参考にしてください」と著名な全集の中の当該楽曲説明のコピーを持ってきた。大山さんはちらっと眺め、「この著者は、この曲のことが何にも分かっとらん」と一蹴。どうしてこの曲が作られたのか、作曲のバックボーンが何なのか、何もわかっていないと言う。「楽譜の裏の事情がわかっていない説明はナンセンスです」と、顔の前で指を左右に振る。外国仕込みだ。
 大山さんには海外での長年の音楽経験がある。桐朋学園卒業後、イギリスで学び、アメリカで学びそのまま在住。ロサンゼルス・フィル時代に世界の巨匠達と一緒に仕事をしたことも大きな財産だ。バーンスタインの楽曲をバーンスタインの指揮で演奏したこともあるよ、と事もなげに言う。「眼の前で本人が指揮・指導してくれたよ」とのこと。また、ロサンゼルス・フィルでは、1987年から副指揮者にも就任している。奏者として、指揮者として、様々な舞台を踏んだ筈だ。奏者として細部から全体を見る見方と、指揮者として全体の俯瞰から細部を眺めて行く手法と、両方の立場を熟知しているのだ。鬼に金棒、怖いものは無い。
 大阪シンフォニカー交響楽団100回目の定期演奏会が、大山さんのミュージックアドバイザー・首席指揮者就任記念演奏会だった。オーケストラにとって100回目の定期演奏会は意義がある。よくぞここまで続いた!という感慨もあるだろうし、今後も続けるぞ!という決意も新たにした演奏会に違いない。記念演奏会では、ヨハン・デ=メイの100回記念書き下ろし「祝典ファンファーレ」他が演奏され、後半はブラームスの交響曲第1番。
 大山さんの定期演奏会では、ベートーヴェンとブラームスがメイン楽曲で数多く演奏された。ベートーヴェンはもちろんクラシック音楽の基本。基本から叩き上げる方針だ。一方ブラームスは何故かと思っていたら、ある時、大山さんから「これを聞きなさい」と大阪シンフォニカー交響楽団とのブラームス交響曲のCDを渡された。立派な演奏だった。大山さんは「ブラームスがお好き」なのか?と思っていたら、なんと大山さんはブラームスの盟友ヨーゼフ・ヨアヒムのお弟子さん筋なのだ。師匠から受け継いだボウイングがある!と言っておられた。正調というところか。当然、楽譜の読みも深い。
 また、いずみホールでは、4回シリーズの定期演奏会があった。2006年度、生誕250年のモーツァルト特集と2007年度の“近代音楽へのアプローチ”。幸いなことに、後者はすべて聴くことが出来た。これは出色の企画だった。任期の最終年度のやりたいことがいっぱい詰まった本気の演奏会。毎回挑戦的な内容だった。第1夜の糀場富美子作曲「輪廻」には驚いた。人の死の瞬間から魂が生まれ変わる時までを、7つの楽章に分けて表現。第1楽章冒頭、客席後方からの半田美和子の歌唱が始まり度肝を抜かれた。また、途中の楽章では、鈴を鳴らしながら会場を歩く。歌詞は、パーリー語とサンスクリット語。チベットの「死者の書」に基づく深い内容だ。第2夜は、管と弦を分けて演奏し、最後は楽しく合奏する室内楽的アプローチ。第3夜は、限界状態で死と向き合う。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏第8番の弦楽合奏版は緊張感溢れる名演奏だった。DSCH音型でショスタコーヴィチ本人を表現し、第4楽章で「KGBが来た!」ノック3回!大好きな曲になった。後半には女優・夏木マリが生き残ったユダヤ人のヴァイオリン弾き役の語り手を務めた「スルー・ロージーズ」。アウシュヴィッツ虐殺の話。唖然とする内容だった。こんな暗い音楽会はどこのオケもやらない!凄いと思った。第4夜は、「アパラチアの春」など綺麗な曲目が並んだ。リハーサルを聴きに来ていた大阪フィルのコンマス・長原幸太君が、「こりゃうかうかしていられない!」とこぼしていた。大阪フィルでは演奏されない尖った演奏会だったのだろう。また、オケの合奏能力も彼の予想を超えていたのだろう。このシリーズは、本当に気合の籠もった素晴らしい企画だった。
 このように、ザ・シンフォニーホールで、どっぷりと古典を演奏しながら、片やいずみホールでは近代音楽の先鋭作品を演奏。大阪シンフォニカー交響楽団における大山平一郎さんの時代は、クラシック音楽の基本を大切にして足元を固めた時代であり、ドイツだけでなく近代音楽の真髄にも挑戦した稔り多き時代でもあったと思う。その証拠に、楽団としては初の全国的な賞/平成19年度文化庁芸術祭「芸術祭優秀賞」を受賞している。
 大山さんは、2005年の就任記念演奏会の挨拶で、千利休の規矩作法「守・破・離」を目標に掲げていた。まさにそれを実行した時代であった。あの頃の精度の高い演奏を今でも懐かしく思い出している。
 
 
「プログラム・マガジン」2018年9・10月号掲載 (C)菊池正和
 
 
大山平一郎      (c)Tsuru
大山平一郎      (c)Tsuru
 
公演当日のジュリーニのサイン
公演当日のジュリーニのサイン
 
第100回記念定期演奏会
大山平一郎 ミュージックアドバイザー・首席指揮者就任記念 第100回記念定期演奏会2005年4月12日
 
 
いずみホール定期チラシとプログラム
2007年度いずみホール定期演奏会“近代音楽へのアプローチ”
   
第3回 トーマス・ザンデルリングと大阪シンフォニカー
嶋田 邦雄  元・日本経済新聞記者
 
 大阪・中之島のグランド・ホテル(旧フェスティバルホールに併設)にトーマス・ザンデルリングを訪ねたのは1991年11月2日の朝だった。町は心地よい冷気に包まれていたが、私は額に大粒の汗を浮かべていた。予約なしのぶっつけ訪問にザンデルリングが応じてくれるか、どうか。当時、新聞社の文化部記者だった私はトーマス・ザンデルリングをどうしてもインタビューしたかった。彼が客演指揮した1日夜の大阪シンフォニカー(大阪交響楽団の前身)第26回定期演奏会は聴衆の衝撃的ともいえる熱い拍手に包まれた。特にブラームス「交響曲第4番」が情熱を濾過したような深い響きで演奏を終えた後、会場のシンフォニーホール・ロビーに佇んでいた楽団代表の敷島博子さんに思わず声をかけた。「ザンデルリングに会いたい。こんな人がシンフォニカーの常任になってくれたら…」。敷島さんは笑顔で応えた。「ぶっつけで訪ねなさいよ。私も事務処理でグランドホテルへ行きますから―」。そんな経緯で始まったザンデルリングとの交流だったが、その日、彼は突然の訪問を機嫌よく受けてくれた。抑えた声で、ドイツ語に時折、英語、ロシア語を交えながら語る。透き通った発声は実に聞き取りやすい。
 「あの純化した弦の音をどのようにして引き出したのか」―いささか青臭い質問に返ってきた答えは「オケが良かったんだよ。プロフェッショナルなオケならみんな無限の可能性を持っている。それをどう引き出すかに指揮者は持つ力のすべてを賭ける。演奏を評価してもらえるのは何よりも嬉しい」。大阪シンフォニカーとはすでに1989年8月の第20回定期演奏会(シューマン「交響曲第4番」など)で気心の知れ合う仲だった故か、取材後、敷島代表が投げかけた「うちの常任指揮者になってもらえるかしら?」の問いにも「ヨーロッパのスケジュールとの調整さえつくのなら、私は喜んで。ロンドンのマネジメントと交渉してください」。―敷島代表を中心としたスタッフの熱のこもった交渉が始まった。これまで日本での受け入れ窓口になっていた音楽文化・事業センターとの交渉を終えた後はオーケストラの演奏力量のスケールアップに着手。トーマスの紹介でロシアで活躍する若手の弦楽器奏者の招聘に取り掛かった。帝塚山の事務所(当時)でロシア宛のFAXを慌ただしく送っていた風景が今でも脳裏に焼き付いている。確か武庫川女子大の益子務さん(テノール)も手伝いに駆け付けていた。何回かの送信不能信号の後、やっと通じた時にはみんなで「やったー」と叫んだ。1992年1月、トーマス・ザンデルリングの音楽監督・常任指揮者就任が決まるのを追うように、ライカン・カラグローヴァ(第1コンサート・ミストレス、キルギスタン出身)、アンドレアス・アイゼンフート(第2コンサート・マスター、オーストリア出身)、タマーラ・サムサリエヴァ(ヴィオラ第1首席奏者、キルギスタン出身)、ウラディミール・スミコフスキー(ヴィオラ第2首席奏者、ウクライナ出身)の4人の入団が決まった。
 トーマスの音楽監督就任を記念する定期演奏会(第29回)は1992年5月8日。演奏曲目はワーグナー「『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲」、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」(ピアノ・荒憲一)、ドヴォルジャーク「交響曲第8番」。トーマスの出自を自己紹介するような想いと、弦の魅力を十二分に開示する内容だった。トーマスは確かにドイツ出身だが、その生い立ちは厳しい20世紀の歴史の荒波に覆われていた。
 彼の父はクルト・ザンデルリング。1958年、完成したばかりのフェスティバルホールを舞台にした大阪国際フェスティバルの開幕時、レニングラートフィル(現在のサンクト・ペテルブルクフィル)やドレスデン・シュターツカペレとともに来日、その重厚な指揮で聴衆を魅了した。そのクルトは1930年代初頭、ドイツで指揮者として注目されていたが、やがて押し寄せたヒトラー・ナチスに抗してソ連に渡り、レニングラートフィルの第1指揮者として活躍。ショスタコーヴィチらと活発な仕事を続け、世界的な注目を集めていた。やがて激しくなる独ソ戦のさなか、疎開先のノヴォシビルスクで1942年10月2日に生まれたのがトーマスだった。「子供の時、父を訪ねてきたドミートリィ・ショスタコーヴィチに手を引かれて長時間散歩した楽しい記憶が今でも残っている」と語るトーマスはショスタコーヴィチ「交響曲第15番」を演奏(1995年10月2日・楽団創立15周年記念第44回定期)する際、作曲者の屈折した想いを話してくれた。「第1楽章のあの諧謔的ともいえるパロディを交えた雰囲気と第2楽章以下の深淵な内容との乖離に困惑する人がいるかもしれないが、それが現在の歴史の矛盾じゃあないだろうか?ショスタコーヴィチは時代に対して非常に鋭い感覚で向き合っていた。私の手を引く時の天真爛漫な明るさと、父と話している時の深刻な顔つきの大きな溝は小さかった私にも“考えることの必要”を教えてくれた」と。
 ショスタコーヴィチと言えば1993年10月13日の第34回定期で演奏された「交響曲第5番」は凄絶ともいえる内容だった。特に第2楽章のコンサートマスターによるソロ部分をライカン・カラグローヴァは不安感を漂わせる演奏で示した。トーマスに聞いた。「あれはあなたの指示?」。答えは「作曲者の想いが実によく形象されていたと思うよ」。
プローベの時など、よく「シャイセ(くそ)!」といった言葉も飛び出した。「あんな汚い言葉をどうして使うの?」と聞くと「親しい仲だからつい出てしまう。ヨーロッパでも熱が入ってくるとあんな言葉が出るんだ。ザウ・カルト(くそ寒い)なんて日本でも言うだろう?」。音楽造りには厳しい姿勢を貫いたトーマスだが、楽団生え抜きの演奏者に高い評価を下していたことも忘れられない。村瀬司のソロでいずみホールで演奏したモーツァルト「クラリネット協奏曲」や、1993年12月16日・第35回定期のブルックナー「交響曲第4番“ロマンティッシェ”」で冒頭のホルンを奏した細田昌宏について、「そう、あの音色なんだ!」とつぶやくように語っていたのを思い出す。各パートの首席を決めるオーディションではヴィオラでバルトークの「無伴奏ソナタ」を選んだ奏者もいた。「難しい曲を出す意欲に敬意を表したい。この楽団にはすごいメンバーが揃っている。いつか、世界のどこにも負けないオーケストラができる日が必ず来る」―これがトーマス・ザンデルリングの大阪シンフォニカーに対する偽らざる評価だった。そう言えば、トーマスの時代から古典派をはじめ、フランス曲、北欧の作曲家たち、さらにはショスタコーヴィチ「交響曲第1番」など、前衛的作品も交えた多様なレパートリーに挑み続けていた。それが現在の大阪交響楽団に見事にバトン・タッチされているのを実感できるのは何よりも嬉しい。
 トーマスが繰り返し尋ねた疑問がある。「なぜ日本ではどのオーケストラも運営資金の悩みを抱えているのか?」だった。トーマスには「世界第2位の経済力を誇る日本(当時)」で文化のバロメーターともいえるオーケストラに国や地方政府(自治体)の財政支援が乏しい理由が理解できないという。企業の文化への支援ももちろん必要だが、まずは国や地方政府が経済の好、不況に関係なく、住民の文化的生活の向上を第一の政策課題として考えるべきではないか、と質問攻めにして来る。「私もそう考えます。でも…」と煮え切らない返事を繰り返すと、「Was?(何だって?)」と荒い語気で迫ってくる。そして「とにかく私たちはプロフェッショナルなオーケストラとしてどこにも恥じない音楽を作るんだ」と自分に言い聞かせるように語るのが常だった。以前は“オーケストラの出前”と言った独特のシンフォニカー型ファン浸透作戦も注目されていたが、トーマスの“プロに徹しよう!”の願いを受けて敷島代表が作戦変更したことも忘れられない思い出である。
 
 
 
 
トーマス・ザンデルリング
トーマス・ザンデルリンク
 
楽団創立15周年記念第44回定期演奏会
楽団創立15周年記念第44回定期演奏会(1995年10月2日) 演奏会が始まる前に
 
 
トーマス・ザンデルリング     ©木之下晃
トーマス・ザンデルリング      ©木之下晃
   
第 2 回 一期一会の特別番組誕生!
“オーケストラも産んだおかあちゃん!!?”  なにわのよっさんプロデュース
 
吉川 智明  FM大阪くらこれ企画プロデューサー
 
 あれは30数年前のこと…確か、八尾のプリズムホールの舞台。ステージの下手でしゃがみこんでスコア(パート譜)を丹念に丹念に仕分けしているおばさんがいた。まさか、このおばさんが大阪シンフォニカーの産みの親・敷島博子さんだとは…。
 よっさんは、あるイベントでどうしても入手したい譜面がなんとしても必要だった…けど、ない。大阪シンフォニカーにあるかも、と聞いて駆け付けた。
 “すいません!〇〇映画の音楽スコアが必要なんですが、貸していただけませんか!!?”
 見上げたおばさんの目が頷いていた。
(そのスコアもどこからかのコピーだったけど。)
 歳月は流れ…僕はおばさんのことを“おかあちゃん”
 おかあちゃんは僕のことを“ヨン様”と会話を交わす間柄になっていった。
(“冬ソナ”(冬のソナタ)の“ヨン様”にチョッと似ているからだというおかあちゃん)
 よっしゃ“ヨン様”こと“なにわのよっさん”が手塩にかけて育てたおかあちゃんのオケ誕生の特別番組を作ってみよう…そんな思いがむんずと湧いてきた。
 <番組企画意図>“オケを作った母”と書けば、たった7文字だけど、その中にとてつもないドラマが隠されている。今、そのドラマをご本人・敷島博子のおしゃべりで綴ってみたい。きっと胃袋のあたりから熱いものがこみ上げ、おしゃべりの行間から汲めども尽きせぬ味わいと深みあるオケ愛の音楽が聴こえてくる…と確信します。
 <タイトル>は…う~ん…「オーケストラも産んだおかあちゃん・敷島博子のおしゃべりエッセイ」でいこ!!
 TMイン(TM:テーマ曲…大阪交響楽団 2017月10月7日・名曲コンサートのライブからモーツァルトのジュピターK551)~BGM~
 『世界に1つしかないおかあちゃんが産んだオーケストラ・大阪交響楽団。おかあちゃんってどんな女性(ひと)?!おかあちゃん、何でオーケストラ作りはったん?!そんな“大胆素敵”なおかあちゃんのおしゃべりなエッセイで綴っていきましょう。
 ~タイトルコール+この番組はおかあちゃんを応援する各社の提供でお送りします(よっさんの特上の声で)+CM』 ~BGM~
 『今晩は…敷島博子です!!私ね、一度、特別番組でおしゃべりしたいナアと思てたんです!肝っ玉かあさんゆわれてますけど、ちょっと身震い。スタジオに入る前にガラスの向こうのヨン様がほぐしてくれました。(ガラス:マイクのある部屋と録音機やCDプレイヤーがある部屋の仕切り。スタジオ=金魚鉢)
 私ね、ホントは年齢いいたくないけど、いわんと話が前に進まないでしょ!?実は…1929年生まれ。この年ってね、あの大女優のオードリー・ヘップバーン、グレース・ケリーが生まれている…美人年なのかしら(笑)。でも世界大恐慌が起こった年でもあるから、私の人生を暗示してるのかもしれないですね!!?(頷くよっさん!)
 さて、音楽と私。私はね、小さい頃からホント音楽が好きで好きで大好きだったの。父がSPレコードをかけてくれたり、よく演奏会にも連れてってくれたから音楽愛は、まさに父からの贈り物。それで、思い出すのは、小さい頃ね、ピアノやオルガンのある友達の家々へお邪魔しては何時間も何時間も嬉しくって弾いていたんです。初めは傍で聴いていた友達は聴き飽きてどっかへ遊びに行ってしまったの。考えたら、阿部野女学校時代に音楽の授業があったくらいで、正式な音楽教育は受けてないんですけど。第2次世界大戦中…防空壕の中でも音楽は肌身離さず!って感じでした。そして、就職先がS商事。天からの贈り物のような会社だったの。何と食堂にピアノが、会議室にはオルガンがあったんです!!だから9時から仕事が始まるんだけど、もう、ピアノが弾きたくって朝7時にオフィスに行ってはピアノを、お昼休みにはオルガンを弾いて…仕事が終わるとまたまたピアノに向かってたんです。感謝!感謝!の毎日でした。
 ピアノ…そう!ピアノを買ったのは結婚後の26歳の時。“バイエル”から始めたの…それから数年後、私の家でピアノを教えはじめたら“敷島さんとこ行ったら、子供が音楽好きになって帰ってきた!!”という嬉しいフレーズが飛び交って、ご近所から次から次へと子供達がやってきて、一緒に楽しんだの。数百人にものぼるかな!!?あのラサール石井君もいたワ。なんだか音楽のお医者さんみたい。これがシンフォニカーの前触れだったのかもしれません。なんだか5,60年以上も前のことが、昨日収録したばかりの映像のように頭のスクリーンに浮かんできます。
 では、ここでピアノ音楽を。私、一世一代の演奏でどうぞ!ちょっとだけですよ!!?
 Ⓜモーツァルト
 「きらきら星(ああお母さん聞いて)による変奏曲」から冒頭
 よく結婚や人生を“羅針盤を持たずに荒海を航海する”ようなものだとたとえることがありますね。あれは…子育ても終わり大好きな合唱を歌っていたまさに平穏な航海中でした…が、1977年48歳の時にお腹を切りました。女性の機能を全部とられ、髭がはえる!胸がなくなる!色々言われ落ち込んでいたら追い打ちをかけるように音楽愛を教えてくれた父が亡くなりました。でも。このまま海中に沈んでしまったら人生終わり。そこから立ち上がったのがオーケストラ作りへの夢だったんです。
 みなさん!…「大阪交響楽団シーズンプログラム・2018年度主催公演のご案内」の小冊子はもうお読みでしょ!!?大阪交響楽団の歴史“すべては一介の主婦、敷島博子の情熱と愛情の深さから始まった”…ママさんコーラスの一員だった私の怖いもの知らずのオケ誕生物語から今日までが綴られています。
 まだの方はこれをお読みになってからこの特別番組をお聞き下さいネ!!?最近、ラジオはパソコン、スマホから“ラジコ”で1週間以内にもう1度聞けますから。(ガラスの向こうで〇サインのよっさん)
 さて、私はオーケストラの予備知識無し、経営ノウハウも無し、練習場無し、スコア無し、事務スタッフ無し、大きな楽器や特殊な(第九でちょっとだけ使用する)楽器無し、ないない尽くしで、な~んにも持ち合わせていませんでした。100万の貯金は有名ですが、主人はネ、材木卸会社に勤めていましたから“オケ(桶)の材料やったらふんだんにあるで!?”なんて言うんです。(なんちゅう“シャレや”とガラスの向こうのよっさん)
 1979年!!?電話魔の私。元NHK交響楽団のコンサートマスターで名教師の岩淵龍太郎さんが教えてくださった学生さん達にかけまくり。今だったら個人情報流出でNGだったでしょうね!?“オケを作ろうと思うの…”と、こんこんと説明…最後に“その話には乗れません。ガチャ…電話が切れる。断るならはよゆ~てェな!“ギャラはでるんですか?!”一銭も出ませんと言ったらガチャ。“さっきも電話かけてきたじゃないか!”と耳に突き刺す冷たい声。電話代だけでも5万以上。何百人に電話したか分かりません。
 果たして…“大阪に新しいオケが出来るんやったら受けてみよか!!?”とオーディションに100人以上が集まってくれはりました。涙です。
 選ばれた楽員50人。遂にオーケストラが誕生しました。“大阪シンフォニカー”が…1980年9月。忘れもしません28日。むちゃくちゃなことを言ってむちゃくちゃなことやって産声を上げました。
 Ⓜ~BGM~
 これは第1回定期演奏会の「モーツァルトのハフナーシンフォニー」のリハーサルから。もう、なんだか初めて“通信簿”を手にした時の不安と期待がない交ぜになったドキドキ感…勿論“優!!”…“素晴らしい音”でした。また涙です。リハーサル会場は幼稚園の講堂や体育館。“うるさいワ~”と近所から苦情がこないか…熊みたいに回りを歩いてました。夏は暑いのに窓という窓を閉めきって練習…“熱演!??”です。
 思えば、その1年前、プロのオケの方に“あんさん、やめときなはれ!そんな打ち上げ花火みたいなことせんと…、住んではるとこにちなんで万代池交響楽団がええのんちゃう…”あのフレーズが逆に励みになりました。
 で、初めての演奏会は定期ではなく福島・会津若松での“第九”。小泉ひろしさんがお仕事というより演奏機会を持ってきてくれはったんです。
 1980年の暮れ、ギャラは…交通費の50万(だけ)。バスをチャーターするのにぜ~んぶの観光バス会社に(またまた)電話かけまくり。一番安いM交通さん。福島に入ったら大雪。若い楽団員はパンしか食べてないのにフライパンで銀杏を炒ったようにはしゃいではしゃいで“雪合戦”。私、涙ですわ。で、着いてすぐ練習…なのに指揮者が来ない!今やったら携帯で連絡取りあえるけど…、兎に角、コンマスの亀田美佐子さんが音を出しかけた時に…ホールの後方から指揮棒を銜えた(くわえた)小泉さんが現れるや、入場前のまだからっぽの客席の間の通路をまるで風のように速く走って…ピヨ~ンと舞台に飛び上がって、シャ~っと振り始めたんです。(“カッコいい〜!!”)あの光景は一生忘れませんね。
 では、その時のライブから第九をお聴き下さい。
 Ⓜ…「第九の第4楽章から」~BGM
さて、その3か月後に第1回定期演奏会を迎えたんです。…が、それからの船出が大変でした。
 あれは福岡から大分、熊本と、ぐるっと回るお仕事でした。行きの船賃と汽車賃があるだけなんです…つまり片道切符。その土地、その土地で演奏会をやってギャラを貰って前に進む。福岡の銀行でギャラの振り込みを待って待って…行員の方に“まだですか?!まだですか!?”って催促。で、お金を掴んで大分に行く電車に飛び乗るんです。それで木賃宿でお金を計算していると…部屋の外に楽員が5人ほど並んでるんです。“どうしたの?!”って聞くと“晩ご飯食べに行くお金がないから、はよ(早く)お金くれ!!”もう涙ですわ。大阪~別府は遊覧気分の船旅…そんなエエもんちゃいます。船底の3等…板の間の上に毛布敷いて、冷凍まぐろが横1列に並んでるように寝ました。…ヨン様から巻が入りました。(巻…そろそろ時間ですヨ!!)この続きはまた次回に。
 …ということで、そんなこんなの“私のシンフォニカー号”は今だ荒海を航行中…もうすぐ40年目の寄港地が見えます!!』
 Ⓜ…第九のコーダ。
 ナレーター:『特別番組 「オーケストラも産んだおかあちゃん・敷島博子のおしゃべりエッセイ」を終わります』〜第九アップ〜コーダ〜船出を祝福するかのような万雷の拍手…鳴りやまず〜FO(フェイドアウト)
 いかがでしたでしょうか!?架空特別番組…なんだか敷島博子さんの音楽愛・オケ愛がじゅわ~と身体中に沁みわたってくるようではありませんか!?心のの襞(ひだ)から雫がポトリ…“ありがとうおかあちゃん!!!”
 なにわのよっさん…こと
 FM大阪くらこれ企画プロデューサー
 吉川智明
 * この架空特別番組で使用した音源がほんまに残っていたら…宝物や!!
 
 
・「くらこれ!」…毎週日曜深夜25時15分~26時15分 オンエア。
・1週間以内、ラジコで再生できます(PC、スマホで)。
・くらこれ=クラシックきくんやったらこれやで!…の略
 
 
 
敷島博子 大阪交響楽団 永久名誉楽団代表
 
大阪シンフォニカ―第1回定期演奏会
第1回定期演奏会を開催できた喜びの挨拶をする敷島博子(1981.3.17森ノ宮ピロティホール)
 
幼稚園の講堂をお借りしてのリハーサル。
幼稚園の講堂をお借りしてのリハーサル。指揮台、小泉ひろしの右側が敷島博子
 
初演奏。
初演奏。2階建てバスに乗り込み、会津若松「第九」演奏会へ向かう楽団員たち(1980.12.27)
 
吉川智明さん
吉川智明さん…FMOH!(FMOSAKA)のスタジオで。
   
第 1 回 大阪交響楽団の37年を振り返って
福本 健 (音楽評論)
 
 大阪に新しいオーケストラ、それも私設のオーケストラができると聞いたのは、私がこの音楽評論という仕事を始めて間もない頃だった。個人の音楽家が演奏活動を継続することは十分に難しいことが多いし、数人以上の演奏団体になるともっと難しいが、ましてや数十人のオーケストラとなるとさらに継続は困難を極めるに違いない。しかもこのオーケストラが公共的な支援もない、一人の女性、敷島博子の強い情熱で創設されたと聞いた時、いったいいつまで続けられることかという懸念が先立ったことを思い出す。
 このオーケストラは当時、大阪シンフォニカーという名称で演奏活動を開始していたが、そうした懸念もあって、私はしばらく近づかなかった。せいぜい数回の、うまくいって十数回の定期演奏会で頓挫するのでは、と思っていたからである。ところがオーケストラ運営の難しさを乗り越えて演奏活動が続けられているし、当時は健在だった今は亡き小石忠男氏が熱心にこのオーケストラのことを語っておられたこともあって、ようやく聴いてみようと思ったのが1986年10月のピロティホールにおける定期演奏会だった。指揮は、設立当初から音楽監督・常任指揮者だった小泉ひろし。その時の演奏は、正直に言うと一生懸命に音にしているが、少しも魅力的な表現が聴かれなかったと記憶する。そうしたこともあって、少し間隔を置きながら、時々定期演奏会に出かけていたのだが、演奏の充実度や魅力は相変わらず今ひとつということが続いていた。
 それが大きく変化を遂げたのは、1992年にトーマス・ザンデルリンクを音楽監督・常任指揮者に招いてからのことである。就任以前から2度ほど、客演でこのオーケストラを指揮していたザンデルリンクは、その客演時からそれまでとは違った、好き嫌いは別にして積極的に音楽を表現する姿勢を強く打ち出しており、常任就任以後もそれを貫き通してきたように思う。オーケストラの楽員が積極的に音楽を表現しようとすることから来る音楽的充実度の向上とともに、外国から常任指揮者を招いたという運営側の、とても中途半端とは思えない姿勢に、強い感銘を抱いた時期である。
 この頃には、すでに音楽雑誌「音楽の友」で定期演奏会の演奏評が掲載されるようになっており、当初の存続に対する危惧は私の中ではほとんど吹っ飛んでいた。実際、当オーケストラの演奏はますます充実度を高めており、大阪文化祭への参加公演で賞を受けるまでになっていた。これ以後、音楽監督や常任指揮者、あるいはミュージック・アドバイザーといった役職に、曽我大介、大山平一郎、児玉宏を順次迎え入れ、さらに正指揮者に寺岡清高を迎えるなどして演奏の向上と充実を図ってきたことが思い出される。この間に、大阪シンフォニカーから大阪シンフォニカー交響楽団、そして大阪交響楽団へと名称を変えたという歴史もある。大阪シンフォニカー交響楽団に名称変更する際、“シンフォニカー”が“交響楽団”という意味なのに、それをダブらせる名称に非常に違和感を抱いたことも思い出す。“シンフォニカー”という名称が一般の聴衆には馴染みにくく、理解されにくいという状況を変え、少しでも人々に親しまれるオーケストラにしたいという思いが反映されたその奇妙な名称に苦笑いをしたことも、今は懐かしい思い出である。
 この間、それぞれの指揮者がそれぞれの持ち味を発揮させた演奏を繰り広げていたが、大阪交響楽団という名の存在を世間に広く、そして強く印象づけたのは、なんと言っても児玉宏の時代に続けられた、知名度の低い作品を取り上げ続けた偉業だろう。並行して寺岡清高が、やはり珍しい作品をシリーズでプログラミングしたことも注目を集めた。ほとんど誰も知らないような、あるいは存在は知っていても聴いたことがないといった珍しい作品を取り上げることで、聴衆を集めることが困難になるのではないかという不安を抱いたものだが、蓋を開けてみればそんな不安が嘘のように多くの聴衆が会場を埋めていた。大阪交響楽団の定期演奏会でしか聴けない曲が次から次にプログラムに登場することで、関西のみならず、東京やその他の地方からも聴衆が集まるようになったという、驚くべき現象も起きたのだ。もちろん、珍しい作品を演奏するというだけでは、いつまでも聴衆を惹き付け続けることは難しいはずなのだが、珍しい作品を高い水準の充実した演奏で聴かせ続けたことが、この状況を作りあげたのだと思う。そうしたこともあって、彼らの演奏が音楽クリティック・クラブ賞や文化庁芸術祭の大賞を受賞するまでになり、大阪交響楽団が関西の優秀なオーケストラの一つとしての地位を確立するに至っている。ずっと聴いてきて思うのは、楽団員の演奏に対する熱意がステージから客席にダイレクトに伝わってくることが、このオーケストラの最も大きな魅力のひとつになっていることだろう。技術的にはもっと優れたオーケストラでも、いかにもお仕事然と割り切ったような醒めた演奏からは、音楽に対する情熱は伝わってこない。この点は今後もずっと大切にして欲しいことである。
 こうした演奏を折に触れて聴いている間の2004年初め、当時の楽団長だった敷島鐵雄から、定期演奏会の演奏評を当楽団のホームページに、演奏会が終わったその夜のうちに掲載する、これまでに例のない試みをやりたいという話があり、私がその執筆を担当することになった。当初、この仕事を渋っていたのは、楽団のホームページに掲載する批評だから、あまりキツくない、いわば手心を加えた批評しか書けないのでは、という思いからだったが、敷島楽団長はどんなキツいことでもその通りに書いてくれ、という言葉で引き受けた。在関西のオーケストラの定期演奏会は出来る限り聴くように心掛けているが、他のコンサートとの兼ね合いやら私事の都合などで、すべて聴くことは難しいのが実情だが、この演奏評を担当することになって、2004年1月の第90回から2015年2月の第192回までの定期演奏会をすべて聴いたわけである。なんと、ほぼ10年、100回以上の定期演奏会を欠かすことなく聴いたとは、自分でも驚きであり、また有り難い経験をさせていただいたものである。思い返すと、思った通りの批評を書いてきたものの、そんなにキツい批評は無かったように思う。つまり、それだけ演奏が充実してきていたということと考えて良いだろう。
 幾多の困難を乗り越え、もちろんこれからも数多くの困難が待ち構えているだろうが、ここまで発展してきた大阪交響楽団に大いなる敬意を払うと同時に、今後の更なる発展を期待したいと思う。
 
 
「プログラム・マガジン」2017年7・8月号掲載 (C)福本 健
 
 
 
1980.9.28 大阪シンフォニカ―発会式の後、第九のリハーサル
 
 
大阪シンフォニカ―第1回定期演奏会
大阪シンフォニカ―第1回定期演奏会(1981年3月森ノ宮ピロティホール)
 
 
トーマス・ザンデルリンク
トーマス・ザンデルリンク(第64回定期演奏会1999年10月ザ・シンフォニーホール)
 
児玉 宏
児玉 宏
 
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