インタビュー 松田 貴之(トランペット副首席奏者)
2017-10-11
— 入団と楽器を始めたのは、いつですか。
1992年12月入団ですからもう25年目になります。ザンデルリンクさんの前でオーディションを受けました。それまで大阪シンフォニカーにはエキストラでも来たことがなかったんです。大学を卒業して、アメリカに留学、日本に帰ってきて1年ぐらい経った頃でした。関西の他の楽団にはエキストラに行っていたのですが、オーケストラの経験はまだ少なかったです。
父が川崎重工に勤めていて、船の進水式でコルネットを演奏していたんです。中学に入って「吹奏楽部でトランペット始めてみるか?」というのが最初でした。すぐには音は出ませんでした。高校ぐらいで楽器を吹くのは面白くなってきて、学校の吹奏楽部に加えて市民バンドにも入ったので、年上の上手な人もいたので楽しかったです。でも、まだ音楽大学には行こうとは思っていませんでした。工業系に進むつもりだったのですが、浪人が決まって初めて音大への進学を考えました。
大阪音楽大学に入学した年にダニエル・ドワイヨ客員教授が主宰していたカナダで開かれているサマーキャンプに参加することができました。そこで後に師事することになる元シカゴ交響楽団ノースウェスタン大学教授のヴィンセント・チコヴィッツ先生に出会えたこともあって、漠然とはしていましたが、プロでやっていければと思いました。それがなかったら吹奏楽が好きだったこともあって、学校の先生になって顧問をしていたかもしれませんね。
— 2番トランペットを吹く魅力は、何でしょう。
学生の頃に、結成したてのセンチュリー(当時の大阪センチュリー交響楽団、現・日本センチュリー交響楽団)にエキストラに行って、1番を吹く佐藤元昭さんの隣でベートーヴェンの「交響曲第7番」を演奏させてもらったんです。「こうやって吹かないと」ということを一から教えてもらいました。それが出来るようにと思ってやってきたところがあります。1番トランペットが指揮者に立たされて拍手を受けるときは、2番がきちんとアシストできた時なのかなと思います。ブラス・セクションできれいなハーモニーが鳴った時は、気持ちいいですね。このオーケストラでずっと変わらないのは、気合いの入った時の熱い演奏でしょうか。
— 年齢と共に変わってきたことは、ありますか。
40代後半からは持久力も落ちてきます。自分の演奏のクオリティが落ちないように維持しなければという年齢になってきました。特別なトレーニングはしていないのですが、無理な吹き方をしないようにはしています。
松田貴之写真:(C)飯島 隆
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
~プログラムマガジン2017年度9・10月号掲載~

インタビュー 原田 美英子(クラリネット副首席奏者)
2017-09-01
— クラリネットを始めたのは。
初めて吹いたのは中学1年生です。ブラバンに入って、キラキラ光るフルートを吹きたかったんですけど、ジャンケンに負けてクラリネットになりました。おもちゃ代わりにピアノやリコーダーが家にあったので、色々触っていて、別に楽器がやりたいっていう意識はなかったんだけれど、やってみて面白かったからそのまま続いちゃったんです。ちゃんと練習したら、ちゃんと吹ける。上手になると、次にこんなこともできるかもと、今に至るまでこの連続です。新しい発見がその時々でありました。
— 専門的にやりだしたのはいつですか。
自分で練習していても限界があるなと、高校生になった頃に思っていて、母に「習ってみたら?」と勧められたのが最初でした。音楽大学を卒業後、仕事にできるのかというところでウロウロしていたのですが、これを仕事にするしかないなと自覚したのが20歳代終わりぐらいです。大阪シンフォニカーにはエキストラでずっと来ていて、ある日「オーディションあるから」と言われるがままに受けて団員になりました。パドマ幼稚園で練習していた時代で、まだまだ半分アマチュアのようなところもあった頃です。
— オーケストラとしてカラーが確立してきたのは。
ザンデルリンクさんの頃は、ある意味鍛えられたとは思うんですけど、その当時は「キンダーガーデン(幼稚園)」と言われてました。実は、児玉宏さん(音楽監督・首席指揮者 2008年4月〜2016年3月)が来てからようやく階段を一段上がることができたのかなと思っています。今に至るまで、ちょっとでも良い方向に行くことができればと考えて、どうにか乗り越えてきたように感じています。やればやるほど、オーケストラの面白さと難しさ、そして奇妙なところがわかってきて、少しは楽しめるようになってきたのかな。
— オーケストラで演奏していてよかったなと思う瞬間は。
私は2番クラリネットを担当することが多いのですが、セカンドにしかない伴奏みたいなソロがあります。例えば《シェヘラザード》(リムスキー=コルサコフ)のヴァイオリンと一緒に動くところ。(座っている場所の)距離があるんですけれど、これを同じ感覚でできたと思えた時は楽しいですね。2番クラリネットというポジションは、吹いている私とは別にもう一人の自分がいて、木管セクションとか管楽器全体のハーモニーを冷静に聴くことができるという点で、オーケストラの中で吹いていて面白いです。大阪交響楽団らしいところでは、これは一例ですが、どのタイプのソリストであっても一生懸命つけてあげようと同じ方向を向けるところが、優しいところだなと思います。
原田美英子写真:(C)飯島 隆
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
~プログラムマガジン2017年度7・8月号掲載~

インタビュー 根来 隆臣(ヴィオラ奏者)
2017-09-01
— ヴィオラ奏者になる前は、会社員だったんですね。
イトマンという商社に勤めていたんです。会社が吸収合併されることになって、まあいいかって感じで辞めてしまいました。楽器を始めたのは大学から、大阪外国語大学の学生オケでです。会社員時代も楽器は弾いていたのですが、所詮アマチュア。貪る様に音楽を聴いていたので、頭でっかちではありましたが、演奏の世界に飛び込んでみたいなという思いがありました。
楽器でいけるという確信はありませんでしたが、常に自分を修正して、技術を変えてきたつもりです。自分の描くイメージに楽器を弾く技術が追いついたら、続けるかどうか判断しようと思っていたのですが、技術は1日にしてならず、できたと思ったらまた一からやり直し。そうこうしているうちに在籍20年を超えてしまいました。
楽器でいけるという確信はありませんでしたが、常に自分を修正して、技術を変えてきたつもりです。自分の描くイメージに楽器を弾く技術が追いついたら、続けるかどうか判断しようと思っていたのですが、技術は1日にしてならず、できたと思ったらまた一からやり直し。そうこうしているうちに在籍20年を超えてしまいました。
— 楽器を弾き続ける原動力は?
あくまでも楽器は道具であって、音楽を自分の頭の中から出す作業にできるだけ集中しようと思いました。ギャップは時間をかければ、ある程度埋まってくるのですが、技術だけを磨いていくことが、果たして面白いかどうかは疑問です。
— オーケストラで演奏していてよかったなと思う瞬間は。
細かい音型で人の伴奏をしている時に完璧に合わせられた時なんですけど、メロディを受け持つパートが変わるたび、そこに合わせなければならないジレンマもありなかなか難しいです。ヴィオラの中でも何人もいるから、後ろの方でそれをこっそりコントロールしたりしてね。ヴィオラって、中間管理職のような取りまとめ役であって、人のアラをいつも探している嫌味な人間という側面も持つと思います。
— 文章も書いていましたね。書く行為は演奏とは違うと思いますが。
批判はしないと決めて、それまでどういうふうに音楽を受け取っていたのかを、面白おかしく書いてみました。人の演奏を聴くのは、演奏の解釈を聴くためで、演奏をする上で「こうしたい」と思い過ぎて邪魔になることもあるけれど、自分の中に貯めておかないと、いろいろな指揮者に応えるためのパレットがなくなってしまう。指揮者の要求を咀嚼するために、演奏の種類をたくさん持っておきたいなとは思います。
— 20数年在籍して、オーケストラのキャラクターは変わりましたか。
大きくは何も変わっていません。ただ、技術的には変化があります。ある意味カメレオン的なオーケストラだと思いますし、それが良い意味でもっと発展して欲しい。どんな指揮者が来ても、その指揮者が思っているように対応できるようになれば、そんな強いオケはないですよ。でもザンデルリンクさん時代の、ここぞという時にみんなでスイッチが入る大阪交響楽団らしさは、まだ残っています。
— 理想の指揮者とオーケストラの関係は?
恋愛関係のようでもあり、ビジネス・パートナーでもある。そこには乗っかれるけど、違うよということも言える。うまくその気にさせてくれるけど、冷静な目でも見てくれる指揮者だったらやりやすいですね。
根来隆臣写真:(C)飯島 隆
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
~プログラムマガジン2017年度7・8月号掲載~

インタビュー 矢巻 正輝(トロンボーン副首席奏者)
2017-05-01
— 入団して何年になりますか。
阪神・淡路大震災の年に大学を卒業して、次の年の1996年入団です。だからもう21年ですね。長いという気持ちはないんですが、オーケストラの中のメンバーや、他の楽団のトロンボーン奏者を見渡した時に気がつくことはあります。それでも、自分の中で何かが変わったということはありません。
— トロンボーンを始めたのは。
金管楽器奏者の御多分に洩れず、中学校の吹奏楽部からだったんですが、音楽にこうしてどっぷりと取り組むつもりはなかったんです。友人に誘われて始めました。その後高校に入ると、中学のライバル校でトロンボーンを吹いていた顔見知りが同じ高校に進学していて、「オレは入部届出したから」って言われて、自分も楽器を続けることになったんです。今でもその3人で楽器を吹いたり、飲みに行ったりするんですよ。
— いつ頃、プロの演奏者になろうと意識しましたか。
親が教員をやっていて、音楽大学に進学をする条件も教員免許を取ることでした。それでも、やりたいことは何だろうと思っている中で、自分自身でも、奏者になるのかならないのかの踏ん切りがつかなかったんです。相愛大学にいた4年間で自分なりに一所懸命やってきたんだけども、自分がどのあたりのレベルにいるのかが、わかりませんでした。そんな中で卒業が近づき、卒業演奏会や新人演奏会に出演することで、大学の外に出て行く機会が増えていった時に、「続けていきたい」という気持ちがふつふつと湧いてきたんです。そこで、親に専攻科に進学したいという話をしたのですが、当然教員になるものだと思っているから納得しない。実家に帰るたびに話をして、それじゃ結果を出さないといけないと思って、頑張って練習をして、オーディションに受かることができました。
— オーケストラの中でのトロンボーンの魅力って何でしょう。
トランペットほど華やかではないし、ホルンほど美しい旋律が出てくるわけでもない。正直、吹いていない休みの部分も多いんです。それでも最大の魅力は、スライドの部分を使って出すハーモニーだと思うんです。曲全体の雰囲気を大きくあらわすことができます。音域的には成人男性の声の高さですが、バルブやロータリーではないスライドというひと世代前の仕組みによって、人の声で歌うような表現ができるところかなと思います。
— オーケストラで演奏していてよかったなと思う瞬間は。
聴きに来てくださる方にこんなことを言われたんです。チケットを買った後、演奏会の当日まで心待ちにして、仕事したり生活をしたりしている。演奏会の2時間だけでなく、コンサートが始まるまでの日常がワクワクするんですと聞いて、そんなことができているならうれしいと思いました。震災の年が大学卒業だったので、友人で集まって自分たちに何ができるのかと話をしたんです。やっぱり音楽しかないという結論だったんですが、僕たちが音楽をすることが、当たり前の街並みのようになりたいなと思うんです。東日本大震災から6年が経った今、オーケストラとして東北に行く機会も多く、改めてそんなことを感じています。
矢巻正輝写真:(C)飯島 隆
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
~プログラムマガジン2017年度4・5・6月号掲載~

インタビュー 米川 さやか(2ndヴァイオリン首席奏者)
2017-05-01
— ヴァイオリンを始めたきっかけは。
兄がピアノを小さい頃に習っていて、その教室ではヴァイオリンも教えていたんです。それで、私が4歳の頃に、兄のレッスンに着いて行った時に見かけたヴァイオリンを弾くお姉さんがすごくきれいで、自分でもやってみたいなと思ったんですね。母に「私はあれを習いたい」と言ったんですが、先生に「小さすぎるので、あと1年待ちなさい」と言われて、1年待って、5歳の時からヴァイオリンを始めました。先生からたくさん宿題が出たこともあって、どんどん練習することで難しいものが弾けるようになりました。もちろん練習は苦痛は苦痛でしたけど、難しい曲が弾けるようになるのは楽しかったです。
小さい時から、ヴァイオリニストになりたいと思っていましたが、友達がバイトや部活や塾や遊びに行ったりしている中でヴァイオリンを続けていた思春期など、やめたい時期がなかったわけではありません。ただ、ヴァイオリンを弾くことが好きという気持ちだけは失うことがなかったので、ここまで続けて来られました。
高校は普通高校に行ったので、音楽大学に入って初めて音楽仲間ができました。皆、本当に努力家でしたし、「こう弾きたい」という主張をきちんと持っている姿に圧倒されましたね。皆が切磋琢磨し技術を高めていく中で、仲間同士のライバル意識が強くなってしまう時があります。未だにそういう雰囲気は得意ではありませんが、このオーケストラに入ったら、みんなで一緒にやろうというフレンドリーな雰囲気があって安らぎました(笑)。
卒業したら、大人数で団結して何かを作り上げる仕事がしたいという思いから、オーケストラに入団したいと思っていました。大学を卒業して、ベルリンに3年留学したら25歳でした。そろそろ自立して食べていきたいと思っていたところ、帰ってくるのと同時にこちらに入団することができたんです。オーケストラに入ってみて、関西は初めてだったのですが、皆さん親切で、お付き合いを大事にされるので、良くしてもらって、すんなりなじめたように思います。
小さい時から、ヴァイオリニストになりたいと思っていましたが、友達がバイトや部活や塾や遊びに行ったりしている中でヴァイオリンを続けていた思春期など、やめたい時期がなかったわけではありません。ただ、ヴァイオリンを弾くことが好きという気持ちだけは失うことがなかったので、ここまで続けて来られました。
高校は普通高校に行ったので、音楽大学に入って初めて音楽仲間ができました。皆、本当に努力家でしたし、「こう弾きたい」という主張をきちんと持っている姿に圧倒されましたね。皆が切磋琢磨し技術を高めていく中で、仲間同士のライバル意識が強くなってしまう時があります。未だにそういう雰囲気は得意ではありませんが、このオーケストラに入ったら、みんなで一緒にやろうというフレンドリーな雰囲気があって安らぎました(笑)。
卒業したら、大人数で団結して何かを作り上げる仕事がしたいという思いから、オーケストラに入団したいと思っていました。大学を卒業して、ベルリンに3年留学したら25歳でした。そろそろ自立して食べていきたいと思っていたところ、帰ってくるのと同時にこちらに入団することができたんです。オーケストラに入ってみて、関西は初めてだったのですが、皆さん親切で、お付き合いを大事にされるので、良くしてもらって、すんなりなじめたように思います。
— オーケストラでセカンドヴァイオリンを弾く面白さを教えてください。
内声を担当しているので、「つなぎ役」ができるところでしょうか。例えば、メロディを弾く人たちを下から支えたり、陰ながらオーケストラを動かしたり、それがアンサンブルでは要になるように思います。他のセクションの人たちと関わる時に、首席奏者として、セカンドヴァイオリン全員の思いを代弁できればと思っているのですが、入団当初はそういう白黒はっきりつけるリーダーシップの役割は自分には向いていないと思ってたんです。でも7年続けることができて、団員の皆様のお陰だと思っています。
— これから、どういうヴァイオリン奏者を目指していきたいですか。
これまでもどんなコンサートであれ、何か一つでもお客様の心をグッとつかむ瞬間があるような演奏をしたいと、心がけてきました。ひとつひとつの演奏会で、それを続けるということですね。
米川さやか写真:(C)飯島 隆
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
~プログラムマガジン2017年度4・5・6月号掲載~
