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楽団員紹介

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新入団員のお知らせ 伊藤 瑳紀(ヴァイオリン奏者)

2018-04-13
伊藤 瑳紀(ヴァイオリン奏者)
2018年2月1日付で、ヴァイオリントゥッティ奏者に
伊藤 瑳紀(いとう さき)が入団いたしました。
 
▶︎桐朋学園大学音楽学部を経て、昭和音楽大学大学院修士課程修了。桐朋学園在学中にラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン、音大オケフェスティバルなどに参加。昭和音楽大学大学院ではフェスタサマーミューザに参加。PMF2017に参加。第23回日本クラシック音楽コンクール全国大会大学女子の部第5位。(最高位)。ジェラール・プーレ氏に師事。
 
メッセージ
セカンドヴァイオリンに新しく入団いたしました、伊藤瑳紀です。オーケストラで演奏することを夢見て日々練習してきたので、その夢が叶い大変嬉しく思います。この伝統あるオーケストラに相応しい音が奏でられるよう、これから精進して参りますのでよろしくお願い致します!
 
 
伊藤瑳紀写真:(C)飯島隆
 

インタビュー 小谷 康夫(ティンパニ首席奏者)

2018-02-26
小谷 康夫(ティンパニ首席奏者)
— 楽器を始めたのは。

小学校5年生の時の鼓笛隊で、最初は打楽器ではなくトランペットでした。親がピアノの教師だったので3歳からピアノは習いましたが、反抗期に入ると嫌になっていました。それが、電子オルガンをしたら面白くって、その頃に解散直後だったビートルズを好きになったんです。赤盤と青盤(ベスト盤)、それから『ホワイトアルバム』ばっかり聴いてました。“レット・イット・ビー”は好きでしたね。それで鼓笛隊での担当が、途中でなぜかラッパから太鼓に変わったんです。この時点ですでに音楽で職業に就きたいという気持ちがありました。中学校で吹奏楽部に入ると、またトランペットだったんですが、電子オルガンを習いに行きながら、ドラム・セットを始めました。それでロックにはまったんです。「ディープパープル」命ですよ。高校の吹奏楽部でも最初はトランペットだったんですが、すぐにパーカッションがやりたくって変わりました。その後、音楽大学を受けたいということになって、マリンバを始めたというわけです。

— そこから演奏家になるまでは、まっしぐらだったんですか。

大学時代に半分は教師になろうと思ってました。親の意向もあって教員採用試験も受けて合格しましたが、面接を受ける段階になって、やっぱり演奏家の道を選びました。日本管打楽器コンクールの1回目がちょうど卒業する年だったんです。実は大学の卒業試験を風疹で受けられなくなって、卒業演奏会に出られなかったことを挽回するためにも頑張って、3位に入賞できました。
その後は各オーケストラとか当時の大阪府音楽団にエキストラに行きだして、そのうちに大阪シンフォニカーに入ることになったんです。ですが、楽団が給与制になる時に自由な活動がしたくって、一旦退団しました。ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団に10数年所属の後に、再びシンフォニカーへ戻ってきました。寺岡清高さんが正指揮者になった頃です。

— 指揮者陣の中ではどなたが印象深いですか。

外山先生はミュージック・アドバイザーに就任前でしたが、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をやった時に、第4楽章の息の止まりそうなゆっくりとしたテンポは、他の人にはまねのできない緊張感だと思いました。児玉宏さんとのブルックナーはどれも記憶に残っています。

— ティンパニの魅力を教えてください。

一番はオーケストラを動かすことができること。決め所を握っている感覚はあります。ベートーヴェン、ブラームスなんかをすると特に感じますね。若い時は大きい音でアインザッツ(音の出だし)を決めるところが気持ち良かったのですが、今はコントラバスとタイミングや音程を合わせて、響きの一体感を作るのが楽しくなりました。叩くんじゃなくて響かせる感覚が大事なんだと思います。

— 大阪交響楽団らしさとは?

音楽に対して情熱があって、実際の年齢ではなく、若い感覚を持ったメンバーが多いと思います。気が若いですね。
 
 
 
 
小谷康夫写真:(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度1・2月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 岩下 明美(コントラバス奏者)

2018-02-26
岩下 明美(コントラバス奏者)
コントラバス奏者
岩下 明美
 
— 入団はいつですか?

1993年ですね。学生の頃からエキストラでは来てたんですが、大学卒業後1年間の専修生を終わって、オーディションを受けました。

— コントラバスを始めたきっかけは。

幼稚園から小3の途中までヤマハ音楽教室に通い、その後ピアノを習ったんですけど、お稽古が嫌でやめたかったんです。父が転勤族で引っ越すたびに「やめられる!」と思ってたんですけど、「自分がやりたいと言って始めたんだから」と行く先々でピアノの先生を見つけてくるんです。中学生の時は吹奏楽部には興味があったけど、バスケットボール部に入りました。
中3で長野県から滋賀県に移った時についたピアノの先生が石山高校の音楽科出身で、「音楽科楽しいから受けてみたら?」と勧めてくれました。夏にあった適性検査に受かって、入試にむけて猛勉強して無事に合格。入学式の前に専攻を決めるということになりました。ピアノじゃなかったら、チェロかコントラバスかオーボエかファゴットか打楽器か歌から選ぶように言われ、楽器をやってみたかったので相談したら、「弦楽器に興味ある?学校が少し遠くて電車通学だし、コントラバスだったら、弓だけ持っていけばいいから。先生もいい先生よ」と言われて、じゃそれをやってみようと、楽器のこともよく知らずに決めたんです。はじめてのレッスンの時、西出昌宏先生に「今年は背のちっちゃい子が来たなぁ。何にもできなくても、そのうちできるようになるから大丈夫!」と言われたのが始まりでした。

— プロの音楽家を目指そうと意識したのはどの時点ですか。

たくさんの縁があって、先生に恵まれ、素敵な人たちに出会ったことで、今の私があります。大学は同志社女子大学で、同じ西出先生につきました。入学式で色々なサークルのチラシをもらって、「何かやりたいよね」と友達とあれこれ考えたんです。同志社大学のオーケストラの見学に行き、誘われるまま同志社交響楽団に入りました。大学のオーケストラの授業も楽しかったですけど、学生オケにはまた違う面白さがありました。クラシック音楽好きが集まっているので、中にはクラオタの先輩もいたりして、こんな人もいるんだ…と、びっくりしました(笑)。先輩方がとても大人に見えました。オーケストラで演奏するのが楽しくて、こんな仕事ができたらいいなと思ったのが、プロを目指そうと意識した時だと思います。

— オーケストラでコントラバスを弾いてきて、良かったなぁと思う瞬間は。

良かったなぁと思う瞬間とは違うと思うけど、ワルツとかポルカの1拍目を弾くのが大好きです。曲の中でベースラインから和音が変わって、音楽の色が変わっていくところも好きです。
 
 
 
岩下明美写真:(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度1・2月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 小谷 麻理子(オーボエ副首席奏者)

2018-01-05
小谷 麻理子(オーボエ首席奏者)
— インスペクター(リハーサル等の時間管理を担当するマネージャー)を務めていますね。

そうなんです。楽団員の持ち回りで一昨年はサブ・インスペクター、今年はインスペクターです。予期せぬトラブルが起こると大変ですが、やりがいのある仕事です。

— オーボエはいつ始めたのですか。

中学校の吹奏楽部でまずクラリネットを始めて、オーボエに変わりました。クラブ自体はとても楽しかったんです。でもリードひとつとっても、オーボエって子供が扱うには大変なんですよ。高校3年生の時、曲の要になるソロを上手に吹くために先生に習いたいと思ったんです。それで京都市立芸術大学の岩崎勇先生を紹介してもらいました。当時、音楽大学への進学は考えていなかったのですが、レッスンに行ったら同級生の音大受験生が7人ぐらい。全員がお互いのレッスンを聴き合うんです。そこで刺激を受けて音大に行きたいと思ったんです。同志社女子大学音楽科 管楽器専攻の1期生として、入学できました。

— 大学時代はいかがでしたか。

京都市交響楽団の呉山平煥先生に厳しく指導されました。そして研究科に残った後、留学したんです。もっとオーボエがうまくなりたいという一心と、ギュンター・パッシンという先生に習いたいという夢だけでドイツに行きました。言葉は通じないし、最初は大変でしたよ。

— 当時の大阪シンフォニカーに入られた経緯は?

2年でドイツから帰ってきて、前川光世さん(当時のオーボエ首席奏者)がいらっしゃるオーケストラに入りたいと思って、オーディションを受けて入団したんです。まともにオーケストラの経験もなかったので、苦労しました。すごく迷惑をかけたと思います。それがある時期から「木管女軍団」とでも言うべき仲間の存在もあって、とても楽しくなってきました。

— 大阪交響楽団らしさを教えてください。

敷島博子代表(現永久名誉楽団代表)の存在は大きいと思います。そんなパワーのある女性が作ったオーケストラというのは誇りです。

— イングリッシュ・ホルンの持ち味は?オーボエを吹いていて、これぞという経験は?

イングリッシュ・ホルンにはソロが多いわけですが、「新世界」(ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」)は何度吹いても緊張します。第1楽章の終わり頃になると、不思議なぐらい心臓がバクバクしてくるんですよ。あれが好きなイングリッシュ・ホルン吹きはいないと思います。
今まで演奏してきて3回ぐらい、神様が降りてきたって思ったことがあるんです。トーマス・ザンデルリンクさんの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第10番を演った時には、客席と舞台が同じ空気になって、ここにいる全員が同じ集中をしていると感じました。
 
 
小谷麻理子写真:(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2017年度12月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 大谷 雄一(チェロ首席奏者)

2018-01-05
大谷 雄一(チェロ首席奏者)
— 大阪交響楽団との関わりはいつからですか。
 
2013年頃から客演で呼んでいただき、14年にオーディションを受けて入団となりました。当時のチェロの団員に大学の後輩がいて紹介されました。それ以前は関東で活動していて、母が関西出身なんですが、仕事としてはこれまで関西にはあまり縁がありませんでした。

— 最初に大阪交響楽団で演奏してどんな印象を受けましたか。

響きのニュアンスが少し違うなと思いました。重厚な感じがしたんです。最初に演奏したのがグリーグの「ペール・ギュント」だったのですが、チェロがピッツィカートで出て一緒にホルンが吹くところで、とても新鮮な感覚を感じました。あとは演奏とは別に普段から団員同士のコミュニケーションが多いので、経験が浅い私にとってありがたい環境でした。意見交換もすんなりとできたんです。

— チェロを始めたのは?

母がヴァイオリンを弾いているのですが、子供の頃から母はチェロが弾きたかったんだそうです。その母が趣味で自分のために買ってきたチェロを、私は奪って弾いていました。しばらく母に教えられながらチェロは独学でやっていましたが、ほかにもジャズ・トランペットを吹いてみたり、バンドを組んでギターやドラムをしたり、家で電子ピアノを触ったり、歌も好きでした。チェロは歌に近かったということもあって、そこに惹かれたんだと思います。実は大学受験を決めた時はセンター試験を受けて一般大学に行くつもりでしたが、直前になって「音大に行く」と言い出したんです。「お前はそう言うと思っていた」って高校の先生には言われました。1年間浪人の後に音楽大学へ入学して、そこからはチェロばっかり弾いていました。

— チェロを弾いていて、どういった活動を目指しましたか。

自分の根っこにあるのは弦楽四重奏なんですよ。大学1年生の終わり頃、先輩に誘われてカルテットを組んで、卒業してからも含めて計10年ほど続けました。今そのメンバーはそれぞれ別のオーケストラで活躍しているんですが、そうやって仲間たちに成長させてもらいながら、自分のライフスタイルとして活動をしていました。オーケストラも、カルテットが拡大したものと考えています。将来的には大阪交響楽団でも室内楽のシリーズができたらよいと思っています。

— 首席奏者として目標とするところは?

色々なタイプの方がいらっしゃいますが、今の段階で私が思っているのは、羅針盤や道路の標識でありたいと思っているんです。これは消極的な意味ではなく、方向性を示すことで、セクションの一人一人が迷いなく積極的に演奏できればと考えています。チェロは低音を支えるとともに様々なパートとの関わりがあって、色々と仕掛けることができるのが楽しいんです。
 
 
 
大谷雄一写真:(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2017年度12月号掲載~
 
 
 
 
 
公益社団法人大阪交響楽団
Osaka Symphony Orchestra
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大阪府堺市堺区
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