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楽団員紹介

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インタビュー 中井 信輔(トロンボーン副首席奏者)

2018-07-23
中井 信輔(トロンボーン副首席奏者)
̶ トロンボーンを始めたのは?
 
 小学校の鼓笛隊で最初はトランペットをやってたんですが、6年生になってトロンボーンの人がいなくなったので、体 が大きいこともあって「替わって」ということになりました。でも、楽器がボロボロでスライドがちゃんと動かないんです。中 学校に入って、もう一度トランペットをしようと思ったんですけど、顧問の先生の専門がトロンボーンで、「あなたは手も長 いし」と言われて、結局トロンボーンになりました。
 
̶ 面白くなってきたのは?
 
 中学3年生になって先輩がいなくなると、好きに吹けるよう になって面白くなりましたね。高校でもブラスを続けたんですが、当時は一般大学への進学を考えていました。高校2年生の時にベルリン・フィルを聴きに行ったんです(1984年、カ ラヤン指揮の来日公演)。バス・トロンボーンのおじさんが、 かっこよかったんです。「どうせやるなら、これやな」と。
 
̶ それで音楽大学に進学したんですね?
 
 吹奏楽ばっかりやってきたから、最初ソロは慣れませんでした。1年生の最初のレッスンで何になりたいかを聞かれて、「オーケストラの人」って答えました。実際にオケの中で吹いてると、人が一杯いるのに一人ぼっちで吹いている感覚がしたんです。その後、 短期大学部から大学部に編入学して、大学4年生の時に大阪フィルの団員の方が留学されるということで、契約団員で1年間、師匠の呉信一先生の横で吹くという得難い経験をしました。全部初めて のことで、表現の仕方も音量も全く違いました。
 
̶ その後、大阪シンフォニカーへ
 
 大阪フィルが任期満了になった次の秋にオーディションを受けて入団することになりました。 オーケストラのサイズが小さかったので、音量と音の長さが違いましたが、ここで小さくまとまってしまえば、将来に弦楽器の人数が増えた時に対応できなくなると気をつけました。そのギリギリの ところで続けてきましたが、当時は年配の人がいなかったこともあり、オケに柔軟性があって、良い 意味でそこから変わり続けてきたと思います。
 
̶ オーケストラでトロンボーンを吹いていて、良かったなという瞬間は?
 
 トロンボーンの3本のコラールが鳴った後に、それが響いて返ってきて、同じステージに乗ってる 他の管楽器や弦楽器の人たちの響きと調和する時ですね。ザンデルリンクさんとのショスタコー ヴィチや、ヴァーレクさんとのスメタナ「わが祖国」などは印象に残っています。人間的なものを引 き出してもらえる指揮者が理想ですね。
 
 
中井信輔写真 (C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度9・10月号掲載~
 
 
 
 
 

新入団員のお知らせ 金井 悠(チェロ奏者)

2018-10-01
金井 悠(チェロ奏者)
2018年10月1日付でチェロトゥッティ奏者に
金井 悠(かない ゆう)が入団いたしました。

▶︎福井県出身。3歳より才能教育にてチェロを始める。2013年に立命館大学政策科学部に入学。オーケストラ活動などの経験を経て、プロを目指すことを決心する。チェロを参納順三、池田沙和子、荒井結子、近藤浩志の各氏に師事。
 
メッセージ
自分がずっと目標にしてきたことが実現し、本当に嬉しく思います。この気持ちを忘れないよう、熱意と努力をもって、精一杯頑張って行きたいと思います。よろしくお願いします。
 
 
 
 
金井 悠写真:(C)飯島隆
 

インタビュー 孫 宝徽(チェロ奏者)

2018-12-21
孫 宝徽(チェロ奏者)
̶ 入団はいつですか?
 
 1995年からです。台湾から留学で来ていた時でした。音楽ではなかったのですが、妹が先に留学で大阪に来ていました。私は先輩に大木愛一先生を紹介してもらい、先生が教える大阪教育大学の大学院に入ったのです。その後、大阪シンフォニカーにエキストラで来るようになりました。
 
̶ その頃はザンデルリンクさんが音楽監督・常任指揮者の時代ですね。
 
 そうです。ブラームスが印象に残っています。彼はトレー ナーでした。私は新人でしたから、まだまだ皆さんについていくのに必死でした。20代で入って、余裕が出てきたのは、やっぱり40歳になってからでしたね。当時は周りも誰しもが一所懸命でしたね。
 
̶ 最近、印象に残る演奏会はありましたか。
 
 カーチュン・ウォンさんが指揮した演奏会です(第218回 定期演奏会、2018年6月1日)。台湾には大勢来ていますが、 これまでアジア人の指揮者が少なかったんです。アジアの台 頭を感じられて嬉しいです。ブームも来るのかなと思いました。ウォンさんは音楽を上手に組み立ててくれましたが、技術だけでなく、人柄も良かった。無駄な説明もなく、棒の表現だけで伝わってくるものがありました。
 
̶ オーケストラでチェロを弾いていて、良かったと思う瞬間は?
 
 一体化する時ですね。一緒に波に乗って、方向性が一致した時は感動しますね。良い指揮者が来た時は、その可能性は高くなります。指揮者はキャプテンですが、それでも任せっぱなしは良くないです。自分のパートで作っていけるように心がけています。
 
̶ チェロを始めたのは?
 
 3歳からピアノをやっていたのですが、音楽の道を進む中で副科のものが必要になって、8歳の時に始めました。ところが人数の多いピアノは競争が激しく、勉強もできないと生き残ることができな かった。10歳の時に、テレビでオーケストラが演奏しているのを見て、かっこいいと感じて、オケでチェロを弾きたいと思いました。台湾では5年制の専門学校で学び、音楽大学の2年に編入する仕 組みがあります。とにかく「継続は力なり」と思って、チャンスを待ちました。台湾の音大では、オケの座り順は競争なんです。先輩後輩関係なく、期末の試験で変わるんです。残酷な競争です。誰も友達はいなかった。それが日本に来たら、伸び伸びできて楽しかった(笑)
 
̶ それはオーケストラに入っても続いていますか?
 
 もちろん辛い時もあるけども、やっぱり弾くことは楽しいです。自分の中では「ノーミス」を目指し たい。それでこそ、要求されたことに応えることができます。だから必ず早めに練習します。自分も満足でき、聴く人も感動できる音楽を目指していきたいです。
 
 
孫 宝徽写真 (C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度9・10月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 津末 佐紀子(オーボエ首席奏者)

2018-07-23
津末佐紀子(オーボエ首席奏者)
— 楽器を始めたきっかけは?

中学校の吹奏楽部から始めたのですが、第1希望がオーボエでした。先輩の楽器紹介でいい音だなと思ったんです。小学校の時に鼓笛隊に入っていたので、中学校に入ったら吹奏楽部か、従兄弟が入っていたテニス部の、どちらかとは考えていました。担任の先生が吹奏楽部の顧問だったのが決め手になりました。

— オーボエを始めてみて、いかがでしたか?

難しい、音が出ない、唇を巻きっぱなしにできない、と難しいことばかりでした。リードだけで吹いて2時間とか、不思議な練習もしましたよ(笑)。中2までは学年で一番下手だったのですが、中3ぐらいでやっと人並みに吹けるようになりましたが、高校に入ったら辞めようと思っていました。でも高校にオーボエがいなくって、「楽器買うから入って」って先生に言われて、やることになったんです。中学校の時にプロ仕様のいい楽器を吹かせてもらっていたのですが、高校の楽器はスクールモデルだったので物足りず、結局は親に楽器を買ってもらいました。そこからちゃんとやり始めて、文系か理系かを決める段階になって、漠然とオーボエかなと考え出したんです。

— 音大に入ってどの時点でプロの奏者になろうと意識しましたか。

ドイツに留学したいというのはあって、3年生の冬にオーボエのクラスでドイツ旅行に行きました。その時に初めてオペラを二つ観て、一つは楽しかったんですが、もう一つはドイツ語もわからないし、つまらないなと思って観たのが「さまよえるオランダ人」(ワーグナー)でした。だけど、なぜかオペラがやりたいって思ったんです。それまでは、やる機会もないし、触れることもなかったんですけど、帰ってきてから図書館でDVDを見たり、興味がわいて、この時ぐらいからオーケストラで吹きたいと意識したように思います。

— その後、ドイツに留学されますね。

大学を卒業した年の9月から留学しました。ドイツには5年半いて、特にメンタル面が強くなりました。大変な事もたくさんありましたが楽しかったです。研修団員という形でオペラを演奏することができ、ますますオペラが好きになりました。初めてのものばかりで、リハーサルなしでいきなり本番であってもやるしかなかった。そのおかげで対応力が鍛えられました。

— 日本に帰ってきてほどなく、オケマンとしての生活が始まりましたね。

ドイツではほとんどがオペラでしたし、2番を吹いていました。それが大阪交響楽団に入って1番を吹くことになり、勝手が違ったんです。何を頼りにしたらいいのかもわかりませんでした。最初は辛かったです。周りの目を気にし過ぎていたように思います。ある時点で「自分でいよう」と考え直し、少しずつ軌道に乗っていきました。ちょうど在籍10年になりましたが、演奏していると前からも横からも後ろからも音が聞こえる、いい位置にいるなぁと実感しています。休団して久しぶりに復帰したら、改めてオケって楽しいなって思いました。
 
 
 
 
津末佐紀子写真 (C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度7・8月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 坂口 雅秀(ヴィオラ奏者)

2018-07-23
坂口雅秀(ヴィオラ奏者)
— 入団はいつですか?

ルーマニアに演奏旅行(2002年12月)へ行った頃でした。それ以前に、エキストラでヴァイオリンでも来ていたのですが、雰囲気が自由で、個性のあるオーケストラだという印象を持っていたんです。弾いていて楽しいなと感じていました。毎回毎回チャレンジができるんです。今でもその思いはあります。
— ヴィオラで入団されたんですね。
ヴァイオリンと両方弾いていたんですが、入団を機にヴィオラに専念しました。気持ちいいんですよ、ヴィオラは。音域もオーケストラの中での役割も好きです。目立たないように隠し味に徹する一方で、時々、スパイスのような刺激も求められます。

— 最初、ヴァイオリンを始めたきっかけは。

小学校4年生の時に、父から「柔道か、ヴァイオリンか、どちらをやるか選べ」と言われて、「柔道は痛そうだな」と思って、ヴァイオリンを始めました。音楽は小さい時からずっと好きでした。リズムを刻むことに興味があったんです。タイヤに巻きつけたチェーンが、回転と共に一定のリズムになるのを眺めるのが好きだったりもしました。専門的に楽器を始めたのはヴァイオリンが初めてです。

— ヴァイオリンを職業にするきっかけは?

実は「なんとかなるわ」というつもりできました。ヴァイオリン以外できないだろうなと思っていたところはあります。大阪教育大学を卒業して、ヴァイオリンで仕事を始めたんですが、大学の先生のつながりで、少しずつエキストラにも呼んでもらえることができて、音楽家同士のヨコの関係も作ることができました。本当に何にも考えていませんでしたが、10年ぐらいはフリーで活動しました。

— 入団して生活は変わりましたか。

同時期ぐらいに結婚したんです。引越しもして、大幅な変化でした。周りもびっくりするぐらい、すぐにオーケストラには馴染めたように思います。

— 近年、オーケストラとして変わってきたことは

メンバーが増えて、個人個人の自由も持ちながら、オーケストラとしての方向性が出てきたように思います。

— 印象に残っている演奏会はありますか?

少し前ですが、ヴラディミール・ヴァーレクさん(2004年9月から2008年3月まで、首席客演指揮者)が指揮する本番のときに、棒を振っている姿がすごく大きく見えて、エネルギーが迫ってくるのを感じました。ああ、これが本物だなと。

— ヴィオラ以外に楽しいことは?

植物や鳥が好きなんです。妻も好きなので、一緒に「今日は大阪城公園に、三光鳥が2羽いたよ」とか言い合っています。三光鳥って「月、日、星、ホイホイホイ」って鳴くんですよ!
 
 
 
坂口雅秀写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度7・8月号掲載~
 
 
 
 
 
公益社団法人大阪交響楽団
Osaka Symphony Orchestra
〒590-0074
大阪府堺市堺区
北花田口町3-1-15 東洋ビル4F
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