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楽団員紹介

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インタビュー 小林 志穂(フルート首席奏者)

2019-01-08
小林 志穂(フルート首席奏者)
— フルートはいつから?

中学校1年の時に吹奏楽で始めました。横笛というのは一つしかないし、見た目重視で選んだんです。エレクトーンを小学校からやっていましたが、中学に入ったら絶対ブラスバンドに入ろうと思っていました。でも最初は音が出なかったです。クラクラするぐらい息が必要で、エレガントな見た目に反して、意外と大変なんだなと思いました。そこから少しずつうまくなるのが楽しくって、学校の楽器も毎日家に持ち帰って練習していました。

— 高校は音楽科だったんですね。

山形の音楽高校に進みました。私はエレクトーンの先生になるつもりだったんですが、中学校のブラスバンドの先生が、フルートで音大に行かないかと勧めてくれたんです。出身も山形県なんですが、地元からは遠くて通えないので下宿を始めました。一日中音楽に触れていられるということが楽しくってしかたがなかったです。ブラスバンドの授業では山形交響楽団の団員の先生が加わってくださって、プロの先生とこんなに近い距離で一緒に演奏できるんだというのが、とてもうれしかったです。

— 大学時代はどのように過ごしましたか?

大学は講習会で出会った先生をきっかけに武蔵野音楽大学に進学しました。フルートだけでも1学年50人弱、フルートの先生も10人強!そのおかげで色々な先生に触れられて向上することができました。一生懸命遊びもしました(笑)。一時期は夜通し友達とゲームをして、指にタコができて、痛くてフルートが吹けないなんてことも良い思い出です。
音大に入った時点でオーケストラに入るという夢があったので、大学を卒業して1年フリーで東京に残っていたんですが、次に桐朋学園大学の研究科に入りました。この2年間が一番濃密で、一番成長できた時期です。日本を代表する演奏家の方と接する中でいろいろなことを学ぶことができました。演奏も意識もレベルも高い仲間たちと一緒にコンクールやオーケストラのオーディションを受けました。山形の先生に「戻って来なよ」とも言われたんですが、諦めきれず、逆に闘志を燃やすことになりました。

— 研究科時代に受けたオーディションで入団されたんですね。

大阪は初めてで、カルチャーショックを受けました。外国みたいで。でも実際に来てみたら、みなさん親切で裏表がない。大好きになりました。楽団員さんもフレンドリーで、「初めての東北人が来た」って面白がってくださったんです。オーディション2次試験の次の日に、ベートーヴェンの「レオノーレ序曲第3番」とスメタナの「モルダウ」を本番で吹くということがありました。私がオーケストラで1番奏者を吹くなんてことは、それまで一度もなかったんです。オーケストラでのあり方も知らずにいて、怖いもの知らずでした。

— オーケストラでフルートを吹いていて、良かったなという瞬間は?

やっぱり「おいしい」メロディがある時(笑)。それなりのプレッシャーもありますが、作曲家が他の楽器ではなくフルートに与えてくれたメロディですから幸せな瞬間です。また素晴らしい指揮者やソリストと共演できるというのはありがたくって、いろいろなアイデアを得ることができます。
 
 
小林志穂写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度11・12月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 熊谷 勇人(コントラバス奏者)

2019-01-08
熊谷 勇人(コントラバス奏者)
— コントラバスはいつから?
 
 中学3年で始めたんですけど、正式に習いだしたのは高校1年からです。大阪出身なんですが、中学から親元を離れて東京に一人で出てきてたんですよ。寮に入ったら、ブラスバンドの部員がいっぱいいて、いろいろと聞いているうちに好きになりました。本当はヴァイオリンをやりたかったんですが、吹奏楽にはありませんから、コントラバスを始めました。先生を紹介されたので、これを仕事にできないかと相談したんです。そしたら「今から頑張れば間に合うんじゃない」ということで、高校1年の春からプロを目指してやりだしました。
 
— 大学に入って環境は変わりましたか?
 
 男子校出身だったので、周りに女性がいる環境がカルチャーショックで、どうしたらいいのか最初はわかりませんでした。あと、音楽を始めたのが遅かったので、苦労しましたね。受験を決めてピアノが必要なことを知ったぐらいですから。ソルフェージュのレッスンに初めて行った時、先生に「これ何の音?」と聞かれて、「ピアノの音」って答えましたから。東京藝術大学に入学して、寮に入ったんです。毎晩夜は宴会で、どちらかというとその頃は美術学部の連中と付き合っていましたね。
 
— 大学を卒業してどうしましたか?
 
 10年ぐらい東京でフリーの奏者でいたんです。いろいろなオーケストラにエキストラで行ったんですが、ものすごく忙しくしているうちに体調を悪くして、「ちょっとぐらい休んだら?」ということで、大阪に戻って、梅田で中古レコード店の店長をしたんです。「カペレ」という初期盤専門店でした。ロンドンまで買い付けも行ったんですが、半年でつぶれてしまいました。30歳の時ですから1993年ですね。それで慌ててオーディションを受けたんです。
 
— このオーケストラのことは知っていましたか?
 
 東京の演奏会で聴いたことのあった、トーマス・ザンデルリンクという人が指揮をしているオーケストラだということしか知りませんでした。入団して驚きの連続です。とにかくまともな楽器を揃えないと話にならないから、事務局長には会う度に言ってました。今はようやくちゃんとした楽器が揃っています。
 
— 印象に残る本番はありますか?
 
 児玉宏さん(音楽監督・首席指揮者、2008年4月〜2016年3月)とのブルックナーの交響曲は楽しかったですね。コントラバスは和声の根音を弾きつつ、倍音を飛ばすのが仕事ですが、音が立ち上がって、空間に広がっていくということが体験できました。それが美しかったんです。
 
— オーケストラでコントラバスを弾いていて、良かったなという瞬間は?
 
 1本で満足できる楽器ではないので、セクションが共鳴しあい、さらにオーケストラ全体を包んで鳴っていく時ですね。響きを決めるということでは、ティンパニとも共通点があります。
 
熊谷勇人写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度11・12月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 中井 信輔(トロンボーン副首席奏者)

2018-07-23
中井 信輔(トロンボーン副首席奏者)
̶ トロンボーンを始めたのは?
 
 小学校の鼓笛隊で最初はトランペットをやってたんですが、6年生になってトロンボーンの人がいなくなったので、体 が大きいこともあって「替わって」ということになりました。でも、楽器がボロボロでスライドがちゃんと動かないんです。中 学校に入って、もう一度トランペットをしようと思ったんですけど、顧問の先生の専門がトロンボーンで、「あなたは手も長 いし」と言われて、結局トロンボーンになりました。
 
̶ 面白くなってきたのは?
 
 中学3年生になって先輩がいなくなると、好きに吹けるよう になって面白くなりましたね。高校でもブラスを続けたんですが、当時は一般大学への進学を考えていました。高校2年生の時にベルリン・フィルを聴きに行ったんです(1984年、カ ラヤン指揮の来日公演)。バス・トロンボーンのおじさんが、 かっこよかったんです。「どうせやるなら、これやな」と。
 
̶ それで音楽大学に進学したんですね?
 
 吹奏楽ばっかりやってきたから、最初ソロは慣れませんでした。1年生の最初のレッスンで何になりたいかを聞かれて、「オーケストラの人」って答えました。実際にオケの中で吹いてると、人が一杯いるのに一人ぼっちで吹いている感覚がしたんです。その後、 短期大学部から大学部に編入学して、大学4年生の時に大阪フィルの団員の方が留学されるということで、契約団員で1年間、師匠の呉信一先生の横で吹くという得難い経験をしました。全部初めて のことで、表現の仕方も音量も全く違いました。
 
̶ その後、大阪シンフォニカーへ
 
 大阪フィルが任期満了になった次の秋にオーディションを受けて入団することになりました。 オーケストラのサイズが小さかったので、音量と音の長さが違いましたが、ここで小さくまとまってしまえば、将来に弦楽器の人数が増えた時に対応できなくなると気をつけました。そのギリギリの ところで続けてきましたが、当時は年配の人がいなかったこともあり、オケに柔軟性があって、良い 意味でそこから変わり続けてきたと思います。
 
̶ オーケストラでトロンボーンを吹いていて、良かったなという瞬間は?
 
 トロンボーンの3本のコラールが鳴った後に、それが響いて返ってきて、同じステージに乗ってる 他の管楽器や弦楽器の人たちの響きと調和する時ですね。ザンデルリンクさんとのショスタコー ヴィチや、ヴァーレクさんとのスメタナ「わが祖国」などは印象に残っています。人間的なものを引 き出してもらえる指揮者が理想ですね。
 
 
中井信輔写真 (C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度9・10月号掲載~
 
 
 
 
 

新入団員のお知らせ 金井 悠(チェロ奏者)

2018-10-01
金井 悠(チェロ奏者)
2018年10月1日付でチェロトゥッティ奏者に
金井 悠(かない ゆう)が入団いたしました。

▶︎福井県出身。3歳より才能教育にてチェロを始める。2013年に立命館大学政策科学部に入学。オーケストラ活動などの経験を経て、プロを目指すことを決心する。チェロを参納順三、池田沙和子、荒井結子、近藤浩志の各氏に師事。
 
メッセージ
自分がずっと目標にしてきたことが実現し、本当に嬉しく思います。この気持ちを忘れないよう、熱意と努力をもって、精一杯頑張って行きたいと思います。よろしくお願いします。
 
 
 
 
金井 悠写真:(C)飯島隆
 

インタビュー 孫 宝徽(チェロ奏者)

2018-12-21
孫 宝徽(チェロ奏者)
̶ 入団はいつですか?
 
 1995年からです。台湾から留学で来ていた時でした。音楽ではなかったのですが、妹が先に留学で大阪に来ていました。私は先輩に大木愛一先生を紹介してもらい、先生が教える大阪教育大学の大学院に入ったのです。その後、大阪シンフォニカーにエキストラで来るようになりました。
 
̶ その頃はザンデルリンクさんが音楽監督・常任指揮者の時代ですね。
 
 そうです。ブラームスが印象に残っています。彼はトレー ナーでした。私は新人でしたから、まだまだ皆さんについていくのに必死でした。20代で入って、余裕が出てきたのは、やっぱり40歳になってからでしたね。当時は周りも誰しもが一所懸命でしたね。
 
̶ 最近、印象に残る演奏会はありましたか。
 
 カーチュン・ウォンさんが指揮した演奏会です(第218回 定期演奏会、2018年6月1日)。台湾には大勢来ていますが、 これまでアジア人の指揮者が少なかったんです。アジアの台 頭を感じられて嬉しいです。ブームも来るのかなと思いました。ウォンさんは音楽を上手に組み立ててくれましたが、技術だけでなく、人柄も良かった。無駄な説明もなく、棒の表現だけで伝わってくるものがありました。
 
̶ オーケストラでチェロを弾いていて、良かったと思う瞬間は?
 
 一体化する時ですね。一緒に波に乗って、方向性が一致した時は感動しますね。良い指揮者が来た時は、その可能性は高くなります。指揮者はキャプテンですが、それでも任せっぱなしは良くないです。自分のパートで作っていけるように心がけています。
 
̶ チェロを始めたのは?
 
 3歳からピアノをやっていたのですが、音楽の道を進む中で副科のものが必要になって、8歳の時に始めました。ところが人数の多いピアノは競争が激しく、勉強もできないと生き残ることができな かった。10歳の時に、テレビでオーケストラが演奏しているのを見て、かっこいいと感じて、オケでチェロを弾きたいと思いました。台湾では5年制の専門学校で学び、音楽大学の2年に編入する仕 組みがあります。とにかく「継続は力なり」と思って、チャンスを待ちました。台湾の音大では、オケの座り順は競争なんです。先輩後輩関係なく、期末の試験で変わるんです。残酷な競争です。誰も友達はいなかった。それが日本に来たら、伸び伸びできて楽しかった(笑)
 
̶ それはオーケストラに入っても続いていますか?
 
 もちろん辛い時もあるけども、やっぱり弾くことは楽しいです。自分の中では「ノーミス」を目指し たい。それでこそ、要求されたことに応えることができます。だから必ず早めに練習します。自分も満足でき、聴く人も感動できる音楽を目指していきたいです。
 
 
孫 宝徽写真 (C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2018年度9・10月号掲載~
 
 
 
 
 
公益社団法人大阪交響楽団
Osaka Symphony Orchestra
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大阪府堺市堺区
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FAX:072-226-5544
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