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楽団員紹介

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インタビュー 金井 悠(チェロ奏者)

2021-01-27
金井 悠(チェロ奏者)
— 入団されて丸2年が経ちましたね。
 
入って年月が浅いので初めてのことが多いんですが、まだまだ経験を積んでいる段階です。
 
— チェロを始めたきっかけを教えてください。
 
近所にたまたまスズキ・メソードの先生がいて、3歳からチェロを始めました。先に姉が同じ教室でピアノを習っていました。一人でやっている時はなかなか面白さは感じにくかったんですけれど、中学生の時に県の弦楽のセミナーに通うようになって、徐々にアンサンブルって楽しいなと思うようになってきました。福井の出身です。
 
— その後、演奏を仕事にするまでは、どういう経過だったんですか?
 
大学は一般大学に入ったんですが、そこで所属した立命館大学交響楽団で出会った友達が習っていたのが、現在の先生である大阪フィルの近藤浩志先生でした。今、大阪フィルで弾いている諸岡拓見さんも同門で、彼からも刺激を受けて、それから真剣にプロになろうと考えるようになりました。頑張るしかないと。そんな中、大学を休学中に大阪交響楽団のオーディションがあって、入団が決まりました。23歳の時です。プロになろうと決心をして、それまでもいくつかの楽団でオーディションを受けていました。大阪交響楽団で演奏したのは、オーディションに受かってからが初めてでした。最初はジョナサン・ヘイワードという方が振った演奏会で、外国人指揮者も初めてだったし、アワアワとしていたと思います。先輩方に助けていただきました。(2018年10月11日・第222回定期演奏会)
 
— この2年間で思い出に残る本番はありましたか?
 
第2代音楽監督のザンデルリンクさんが来られてショスタコーヴィチの《交響曲第10番》を演奏した時が印象に残っています。(2020年2月7日・第237回定期演奏会)
 
— オーケストラで弾いていて良かったなと思う瞬間を教えてください。
 
大きい曲を弾き終わる時が一番好きなんですよ。それまで難しいところ、気持ちのよいところなど色々あった最後に、全員で「ジャン♪」と一体になって終わる感覚が好きです。
 
— これまでの音楽人生で印象に残った演奏会はありますか。
 
入団前となると学生の時になります。学生オケは半年かけて一つのプログラムを仕上げるわけですから、本番は毎回印象に残っています。その中で阪哲朗さんが指揮をしてくださった時なんですが、ウィーン・フィルからチェロのヘーデンボルク・直樹さんをソリストに迎えたことがありました。ドヴォルザークの《チェロ協奏曲》を弾いてくださったんです。その後のチャイコフスキーの《交響曲第5番》もオーケストラの中で一緒に弾いてくださって、とてもいい経験になりました。
 
— どんな曲が好きですか?
 
好き嫌いはそんなにないのですが、取り組んでみたい曲はたくさんあります。聴くのだったらあんまり暗くない曲ですね。
 
— これからの夢を教えてください
 
まだ20代半ばということもあって、色々と挑戦していきたいと思っています。オーケストラでもまだまだ勉強しなくっちゃいけないし、音大を出た人と比べると経験が少ないと思いますので、室内楽やソロにも積極的に取り組んでいきたいと思っています。
 
 
 
金井悠写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2020年度1・2月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 阿部 竜之介(トロンボーン首席奏者)

2020-08-05
阿部 竜之介(トロンボーン首席奏者)
— 楽器を始めたのは、いつからですか?

中1の時に、それまでは剣道少年だったんですが、姉の影響でユーフォニアムを始めたんです。アメリカの大学に行くつもりだったんですが、フランスで行われたコンクールで、テューバの演奏レベルの高さに愕然としました。その人たちを教えた先生と話す機会があって、その人に習おうと。正直、当時トロンボーンは持って行くのかも迷っていたぐらいです。本格的にトロンボーンの勉強を始めたのは、21歳でフランスに留学してからでした。

— フランスはどこの街に行ったんですか?

ペルピニャンという地中海沿いのスペインとの国境に近いところでした。海も山もある快適で最高の場所です。トロンボーンでオーケストラの醍醐味を味わいながら、ソリストとしてユーフォで活動できればという夢がありました。先生にはトロンボーンをユーフォの2倍練習しろと言われて、その通りにしました。

— どちらかを選んだわけじゃなかったんですね。

よく、どちらがメインなんですか?と質問されるんですが、きついのを承知で両方の道を選びました。1998年から2002年までがフランスで、その後1年間、ドイツのライプツィヒでプロの吹奏楽団でユーフォ奏者として在籍しました。次がハンガリーです。ニーレジュハーザという街で教えることになったんですが、ハンガリーがEUに加盟してすぐで、フランスの音楽院で取ったディプロマの扱いのルールが決まらず、宙ぶらりんな状態でした。サボルチ交響楽団というところで、トロンボーンを吹いていたんですが、コンサートの数は少なかったんです。
最終的に就労ビザが取られなくて、日本に帰ってきました。珍しいと思うんですけど、6年間ヨーロッパにいて、色々な体験を実際に現場に身を置いてできたのはよかったです。

— 日本に帰ってきて、どうしましたか?

出身地の松山を拠点にしました。学校の吹奏楽部の指導が多かったのですが、あとは個人レッスンと、フリーランスとしての活動です。トロンボーンでエキストラの仕事も少しずつあったんですが、日本のオーケストラでの経験がなかったので、仲の良い友達から色々と習慣なんかを教えてもらいました。2015年に大阪交響楽団のオーディションを受けて、入団することになります。

— すぐに楽団へは馴染めましたか?

今になって、みんなオケに入って慣れるまで大変だったという体験を聞いて、自分だけじゃなかったんだと思いました。自分を活かしながら、どう位置付けをするのかを、色々なメンバーに助けてもらって、ようやく楽しめるようになってきました。フリーランスの時間が長かったからだと思うんですが、演奏に集中できる環境があることに、まずは感謝しなきゃいけない。それを忘れちゃいけないと思うんですね。
今までの人生で戻りたい時はありません。その時その時を必死でやってきたので、絶対、今がうまくいっているという感覚があるんです。一回一回のコンサートは聴いている人にとっては唯一なので、あまり過去には浸らないようにしています。生徒にもウォームアップだからって適当に音を出さないでって言っています。吹き直すって良くないんですよ。今が最高になるように、いつ出した音が自分の最後の音になっても後悔しないようにしています。
 
 
阿部竜之介写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2020年度8・9月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 清水 恵美(ヴァイオリン奏者)

2020-08-05
清水 恵美(ヴァイオリン奏者)
— 長く、このオーケストラで活動されてきました。

自分としては初々しい気持ちのままでやってきたつもりだったんですが、よく考えてみれば、この楽団で27年お世話になっていることになります。この(コロナ禍で)何もできなくなった時に、寂しくて、穴があいたような気持ちになったということは、やっぱりここに自分の人生があったんだと思い知らされています。
3姉妹だったんですが、母が子供たちに違う楽器をさせたかったんですね。母に促されるように、4歳の時からヴァイオリンをやってきました。習い始めた頃の記憶がないんですが、写真なんかを見ると、上手に持って弾いてるんですね。多くの子供達が楽器を習う中で育ってきたので、苦労したというよりは、朝起きてヴァイオリン弾いて、学校行って帰ってきて、またヴァイオリン弾いて、週末にはみんなとの合奏に行ってと、生活の流れの中にずっと音楽がありました。

— ヴァイオリンを仕事にしようと思ったのは?

大学に入って先輩方を見ていて、大好きだった先輩たちが卒業して行った時に、音楽に全然関係のない仕事に就かれていくのを「なんでなんかな」と思って見ていたんです。そんな中で、誘われてオーケストラへ仕事に行くうちに、ヴァイオリンを弾くことが仕事になりました。当時は仕事が沢山ありました。20代はバブルの時代で、朝昼晩掛け持ちも多かったし、本当に忙しかったです。1993年に当時の大阪シンフォニカーに入団した頃は、トーマス・ザンデルリンクさんが来られていました。姉がチェロで団員になっていて、私もエキストラでは弾きに来ていたんですが、オーディションがあるということで、受けることになりました。

— ザンデルリンクさんは、どんな指揮者でしたか。

容赦のない厳しいリハーサルでしたね。それでも、あの時していただいたことで、このオケの底辺が上がったんだと思います。何をやっても、良くない良くないって怒られて、怖かったですけどもね。絶対的なものをお持ちで、音を手繰り寄せる力がありました。

— それから四半世紀以上が過ぎたわけですが、オーケストラも変わりましたか?

たくさん人の出入りもありました。練習場も淀川善隣館、パドマ幼稚園の時代から色々と変わりました。敷島博子さんと共にあった手弁当の時代から、全部が変わっていったわけですが、今は、環境が整って、若い人たちが気持ちよく演奏したいと思えるオケになって欲しいし、独自性を持って、存在感を示すことができるオケでいて欲しいです。

— 大阪交響楽団のいいところって何ですか?

柔軟性じゃないかなと思うんです。長く関わっている人たちが居座るのではなく、みんなが和気あいあいと接する中で、新しいことができるオケじゃないのかなと思います。

— オーケストラでヴァイオリンを弾いていて良かったと思える瞬間は?

本番でみんなの気持ちが一つになって演奏できることですね。それと、ソリストの方がいらっしゃる時の空気が変わる瞬間というのは、他のことには替え難いです。シルヴィ・ギエムさんが《ボレロ》を踊られた時は、あまりにも凄くって、釘付けになってしまいました。自分がその場にいられたことに感動しました。
 
 
清水恵美写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2020年度8・9月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 潮見 裕章(テューバ奏者)

2019-07-02
潮見 裕章(テューバ奏者)
— 先日、楽団の創設者である敷島博子さんが亡くなられました。どんな思いを抱いてますか。

僕らがオーディションを受けていた時代は、当時の指揮者のトーマス・ザンデルリンクさんや本名徹次さんと一緒に代表(敷島博子さん)も聴いていらっしゃったんですよ。エキストラで呼んでいただいた時代からお世話になっていますから、恩義を感じて1999年の入団以来、20年間やってきました。

— テューバはいつから始めましたか。

中学校1年生からです。吹奏楽部に入って始めました。小学校では空手の道場に通ってたんですが、一緒にやってた友達に誘われてクラブの見学に行ったんです。その日が部活を決めなくちゃいけない日で、顧問の先生の部屋でやりたい楽器を一人ずつ言うんです。友達は「アルト・サックスに決まった」って先に出てきて、さあ僕の番です。部屋に入ったとたん「おう、お前はテューバ、もうええで!」と2秒ぐらいで決まってしまいました。当時から体が大きかったんですね。

— 実際に楽器を触り出して、どうでしたか。

テューバという名前すら知らなかったんですが、音楽の面白さを教えてくれる先生だったので、友達と一緒に演奏する楽しさを感じることができました。高校に入るとテューバ専攻だった音楽の先生がいらっしゃって、音大を受験したいという相談もできました。僕は兵庫県相生市の出身なんですが、隣町の龍野で開かれた吹奏楽のクリニックを受講した時に、京都市交響楽団の武貞先生を紹介してもらって、音大受験の準備を始めました。その後、大阪音楽大学の短大に合格しました。浪人も考えたんですが、短大を出て編入試験を受ける道を選びました。もともと学校の音楽の先生になるつもりだったんですが、在学中に先生方の紹介で仕事で使ってもらうことが増え、プロのオーケストラでの本番に向けての積み重ねや、金管五重奏でアンサンブルの楽しさを経験し、その中でプロを目指したいという気持ちが芽生えてきたんです。大学を卒業して、3ヶ月だけドイツのミュンヘンで勉強しました。その後、フリーランスの仕事をたくさんいただき、大阪音大でも非常勤教育助手というのを3年して、その任期満了時に、このオーケストラのオーディションに合格できたんです。

— オーケストラの中でのテューバの魅力は?
 
『バビル二世』のロデムみたいに何でも姿を変える楽しさを感じて演奏しています。トロンボーン・セクションと一緒に行くぞと「ドーン」となったり、コントラバスとだと「ブーン」となる。オケ全体が鳴っている時でも、テューバは独立して聞こえやすいと思うんですが、それをいかにテューバの音でないように吹くにはどうするのか、その逆ならと、一人で色々とオケの音を変えられるというのが面白いです。

— 印象に残る本番はありますか?

いっぱいあるんですが、外山雄三先生とのチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」でしょうか(第208回定期演奏会、2017年2月22日)。自分が望んで出しているのでも、させられているのでもない空気感の中で、そうとしか吹けない音がひねり出されて、演奏していて「ゾゾゾゾ」と来ました。児玉宏さんとも命令されているわけではないのに、その通りに演奏してしまうという感覚がありました。僕自身が吹奏楽の指揮をするので、とても興味があります。指揮というのは、その人のバックグラウンド、人生で経験したことが勝手に滲み出る部分があると思うのですが、この二人からは強くそれを感じました。
 
 
 
潮見裕章写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2019年度7・8・9月号掲載~
 
 
 
 
 

インタビュー 松田 尚子(ヴァイオリン奏者)

2019-07-02
松田 尚子(ヴァイオリン奏者)
— 先日、楽団の創設者である敷島博子さんが亡くなられました。どんな思いを抱いてますか。
 
1991年に入団したんですが、私が入った頃も毎回リハーサルから顔を出されていました。いつも明るいお母さんという感じで、練習から本番まで笑いが絶えない雰囲気がありました。
 
— ヴァイオリンはいつから始めましたか
 
はっきり覚えていないんですが、母が家でヴァイオリンを教えていたので、きちんと習い出すまでは、母と一緒に家でやってました。小学校に入って基礎から初めて、相愛学園の高校音楽科、相愛大学、さらに専攻科まで、ずっと久合田緑先生に習いました。先生がアメリカから帰っていらしてすぐで、お家が通える所だったんです。毎回レッスンを録音して持って帰ると、母が楽譜に書き込みをして「これをやっておきなさい!」と。その頃から母も厳しくなったし、先生も厳しかったです。それでも大変だと思いながらも、遊びかヴァイオリンかというぐらいで、呑気な小学生でした。
 
— その後は順調に続けられたのですか?
 
小学生の時から相愛の子供の音楽教室に入ってオーケストラを始めるんですが、中学生になるとオーケストラに管楽器が入ってきて、大学生の人たちが加わるんですよ。ちょうど相愛大が共学になった頃でした。初めて知った世界で、とても楽しかったんです。尾高忠明先生や円光寺雅彦先生にも振っていただきました。できたてのザ・シンフォニーホールでも弾くことができましたね。大学時代はコンサートマスターをさせてもらいました。専攻科に1年残っていた頃、エキストラでこのオーケストラによく呼んでもらっていたんです。トーマス・ザンデルリンクさんが初めて客演で来られた頃で、ものすごく怖かったんですよ。
 
— それでオーディションを受けることに?
 
先輩に声をかけていただいて、受けました。卒業と同時に大阪シンフォニカーに入団しました。でも生活は変わらないんですよ。それまでもずっとオケで弾いていましたから。
 
— オーケストラでヴァイオリンを弾く魅力は何ですか?
 
オケで有名なヴァイオリニストの伴奏をすると、自分が一人で演奏する上での未熟さに早い時点で気がつきましたが、オーケストラってみんなの力じゃないですか。集合体となって一つの曲を作り上げる面白さがありますね。
 
— 印象に残る本番はありますか?
 
それぞれなんですよね。中でも児玉宏さんとブルックナーの交響曲を毎年一つずつできたのは、喜びでした。それまでは《第4番》しかやってこなかったし、大きいオケじゃないから全部できないとも思っていましたから。児玉さんはリハーサルの仕方も特有のやり方があって、新鮮でした。
 
— もしヴァイオリンじゃなかったら何の楽器をやりたいですか?
 
うーん、そうですねぇ…、ホルンかな。音が好きなんですよ。
 
— これまで在籍されてきて楽団の変化は感じますか?
 
私が入った時は年齢差がそれほどなかったんですが、今は幅広い年齢構成になりましたから。それが普通ですけど。関西以外の出身者も増えましたし。変わりましたねぇ。ある意味、スマートになったのかなぁ。でも、皆んな和気あいあいと仲良いですよ。いつも笑ってますね。
 
 
 
松田尚子写真(C)飯島 隆
 
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
 
~プログラムマガジン2019年度7・8・9月号掲載~
 
 
 
 
 
公益社団法人大阪交響楽団
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