インタビュー 片岡 あづさ(チェロ奏者)
2025-10-27
— 楽器を始めたのは?
6歳からです。父の指導しているオーケストラのリハーサルに行って、客席を探検していました。母に「この中で、どの楽器がやりたい?」と聞かれて、指をさしたのがチェロでした。すぐに楽器を借りて、1週間後にはレッスンが始まり、毎週、母の車でレッスンに通いました。見つめていたあの楽器が自分も弾けるという楽しさと嬉しさでいっぱいでした。父(元 京都市交響楽団 首席コントラバス奏者)の影響も大きく、いろいろな機会を与えてもらえました。中学生ぐらいから、音楽の方向に進みたいと思い始めて、音楽科のある高校に進学しました。
6歳からです。父の指導しているオーケストラのリハーサルに行って、客席を探検していました。母に「この中で、どの楽器がやりたい?」と聞かれて、指をさしたのがチェロでした。すぐに楽器を借りて、1週間後にはレッスンが始まり、毎週、母の車でレッスンに通いました。見つめていたあの楽器が自分も弾けるという楽しさと嬉しさでいっぱいでした。父(元 京都市交響楽団 首席コントラバス奏者)の影響も大きく、いろいろな機会を与えてもらえました。中学生ぐらいから、音楽の方向に進みたいと思い始めて、音楽科のある高校に進学しました。
— 高校の音楽科となると、ずいぶん環境が変わったんじゃないですか。
とにかく朝早く行って、練習室で弾いてから授業という音楽漬けの毎日でした。相愛大学に進学してからは、音楽で仕事をしたいという気持ちがより強くなりました。たくさんの演奏会に足を運ぶ中で、やっぱりこの道に進みたいと思いました。特に「ベルリンフィル12人のチェリストたち」は記憶に残っていますし、京響の演奏会では、父がコントラバスを弾いていたマーラーの「巨人」もよく覚えています。
— 大学卒業後はどうされたのですか?
大学4年間で勉強しきれなかったことが多すぎると自覚して、大学の専攻科に進みつつ、並行して桐朋のオーケストラアカデミーで学びました。富山と大阪を往復する日々でした。東京の先生方とのつながりもできましたし、今まで学んできたことと違う発見もありました。その後、フリーランスで活動を始めた時にコロナ禍になってしまいました。正直、これまでの状態に戻るのかという不安があったので、音楽以外の道を考えた時期もありました。
— 入団はいつですか?
2024年6月です。実は大学生の時に、初めてプロのオーケストラにエキストラで呼んでいただいたのが大阪交響楽団でした。ずっと大阪響のチェロ・セクションが大好きなんです。それぞれのお人柄はもちろん、セクションの音が好きで、ここに入りたいという気持ちがありました。まっすぐとした情熱があって、温かくて、チェロのソリが出てくるととても幸せです。
— 入られて1年ですけど、印象に残る演奏会はありましたか?
オール・リヒャルト・シュトラウス・プログラム(2025年3月14日・第278回定期演奏会、常任指揮者 山下一史指揮)もそうですし、第二代音楽監督 トーマス・ザンデルリンクさんとのブルックナーの7番の交響曲(2024年10月4日・第275回定期演奏会)もよく覚えています。クラシックはもちろん、幅広いジャンルを手がける中で、楽団員が前に出てコンサートを創る場面も多いのですが、それぞれの楽団員のキャラクターが濃くて、それが良い意味で音楽にもあらわれているんじゃないかなと思います。
— オーケストラでチェロを弾いていて、良かったなと感じるのはどんな時ですか?
もちろんお客さまから拍手をいただく瞬間もですが、終演後にロビーへ出てお客さまの反応を見たり聞いたりすると、とてもやりがいを感じます。
— これからどんなオーケストラプレーヤーになっていきたいですか?
オーケストラに入っても、今まで自分で目指してきた、ソロや室内楽も含めてオールマイティにできる奏者になりたいという思いに変わりはなく、ひとまず10年のスパンの中でレパートリーを増やすこと、技術をさらに磨くこと、多くの方から必要とされる奏者でありたいと思います。
片岡あづさ 写真:(C)飯島 隆
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
~プログラムマガジン2025年度10・11月号掲載~
