インタビュー 三原 萌(フルート首席奏者)
2025-07-01
— 楽器を始めたきっかけは。
4歳からヤマハ音楽教室に、6歳からはピアノ教室に通っていました。フルートは母が趣味で吹いていたこともあり、小学6年生から始めました。中学2年生の時に初めて受けた全日本学生音楽コンクールの大阪大会でいきなり本選まで行くことができ、ピアノではたどり着けなかったレベルで勝負できると感じ、フルートを続けたいと思うようになりました。練習時間確保のため、地元の高校を選びましたが、大学は東京音楽大学へ進学しました。大学4年生の時に留学先を決めるため、ウィーン、パリ、フライブルクそしてハンブルクへ、単身先生探しの旅に出ました。一番厳しいアドバイスをくださった、ウィーンのギゼラ・マシャエキ=ベア先生の下で勉強したいと思い、大学を卒業したのち渡墺し、ウィーン国立音楽大学にて約5年間の留学生活を送りました。
4歳からヤマハ音楽教室に、6歳からはピアノ教室に通っていました。フルートは母が趣味で吹いていたこともあり、小学6年生から始めました。中学2年生の時に初めて受けた全日本学生音楽コンクールの大阪大会でいきなり本選まで行くことができ、ピアノではたどり着けなかったレベルで勝負できると感じ、フルートを続けたいと思うようになりました。練習時間確保のため、地元の高校を選びましたが、大学は東京音楽大学へ進学しました。大学4年生の時に留学先を決めるため、ウィーン、パリ、フライブルクそしてハンブルクへ、単身先生探しの旅に出ました。一番厳しいアドバイスをくださった、ウィーンのギゼラ・マシャエキ=ベア先生の下で勉強したいと思い、大学を卒業したのち渡墺し、ウィーン国立音楽大学にて約5年間の留学生活を送りました。
— ウィーンで学んで、変わったことは何ですか?
身体の使い方、現代音楽、古楽器演奏にも取り組んだのですが、何よりもウィーンの演奏スタイルを学びました。ドイツとはまた違う、短めのフレージングがウィーンらしいなと感じました。オーケストラへ入るためにはピッコロももっと上手くなりたいと思い、フランクフルト放送交響楽団のタデウス・ワトソン先生が教えておられる、フランクフルト芸術音楽大学の大学院に入学しました。1年間だけでしたが、彼から非常にたくさんのことを学びました。兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)に合格したため、大学院は休学し、2019年にPACに入団しました。ほどなくコロナ禍になり、本来3年間の任期が4年に延長され、大学院への復学は断念しました。
— PACでの経験ではどんなことを得ましたか?
オーケストラ奏者としての実力をつけることができました。1番フルート(1st)を吹く機会をたくさんいただき、プロのオーケストラプレーヤーからもアドバイスを貰い、試行錯誤する日々でした。記憶に残っているのは、初めて1stで定期演奏会に臨んだ、プロコフィエフの《交響曲第5番》で、指揮はアレクサンドル・ベデルニコフさん。満席のお客様を前にとても緊張しましたが、指揮者のアイディアに導かれ、大興奮の本番となりました。あとは、ブルックナーの《交響曲第7番》を演奏した際に、自分の音をホールで響かせる感覚がつかめたこともよく覚えています。
— そして大阪交響楽団に入団することになったんですね。
PAC在籍中にオーディションを受け、合格しました。その前にエキストラとして何度か呼んでいただいていたのですが、思い出深いのは、「名曲コンサート」のドヴォルザーク《交響曲第8番》で1stを演奏させていただいた時です(第118回名曲コンサート、2021年8月29日)。1日2回本番をやりきる皆さんの精神力に感動し、新参者の私にも優しく、みんなで音楽をつくっていく雰囲気がいいなと感じました。最近だと、山田和樹さんの指揮で演奏した、メンデルスゾーンの演奏会は、一生忘れないと思います(2025年1月22日、住友生命いずみホール)。宗教改革のソロで「時空を超えて吹いて」と言われたときは、面白いアプローチをされる方だなとついニンマリしてしまいました。
— オーケストラでフルートを吹いていて、良かったという瞬間は?
皆さんが支えてくださる中でソロを吹くのは緊張もしますが、やはり気持ちがいいです。また、他の楽器と音が溶け合い、フルートだけでは出せない音色が生まれた時も嬉しいです。
— どんなオーケストラプレーヤーになっていきたいですか?
お客様と一体になって感動していくことができるプレーヤーになりたいと思います。
三原 萌 写真:(C)飯島 隆
聞き手/小味渕彦之(音楽学・音楽評論)
~プログラムマガジン2025年度7・9月号掲載~

