2020年7月16日(木)19時00分開演
楽団創立40周年に寄せて
40年前の創立の経緯を思い出すと、このオーケストラの現在の輝かしい姿が奇跡のように思われる。
オケのレジェンド敷島博子さんが亡くなられた今、当時を知る人はもう僕だけかもしれない。あの頃の苦労や楽しかった事を笑いながら話したかったなとつくづく残念に思う。
当時、僕は1カ月に1回東京からやって来てコーラス団の指導に関わっていた。そこの団員だった敷島さんは音楽が本当に好きで、コーラスで歌うだけではなく何かもっと大きな事、たとえばオーケストラを作りたい、という大胆不敵な考えを持っていて、度々その話を情熱的に僕に話してくれた。
今考えても笑い話のような事だが、とにかく敷島さんはもちろん、事務を担当した人もオーケストラについては全くの素人というか、無知だった。貯金通帳を開いて「この100万円でやりましょう」とか「楽器は各々が持っているのだからOK」とか、一体どこで練習をするのか…場所の確保のことは計画の中には含まれていない等々!!それでも敷島さんのもの凄い情熱と無知さがオーケストラを誕生させてしまったのだ。
はじめは「ムリ、ムリ、ムリ」と言っていた僕もいつの間にかその計画に巻き込まれてしまった!それからの前進するスピードは速かった。
まず団員のオーディションをした。オケの名前は、僕が留学していたウィーンのオケ「ヴィーナー・シンフォニカー」からとって、大阪シンフォニカーとした。そしてオケ誕生から2か月で年末の大雪の会津若松で「第九」、その3カ月後に第1回の定期演奏会を開催した。
オーディションを通して入ってきた団員は皆優秀で若く、新しいオケを成功させたい気持ちであふれていた。もちろん情熱だけではオケは出来上がらないので、僕はヨーロッパで吸収した知識も含め全力を注いで厳しい練習を重ねた。
誰もかれもが必死だった。
初めてのリハーサルの日、第1回定期演奏会で披露する「田園」の、チェロによる出だしのFとヴィオラのCの音が出る瞬間の「今、いよいよ始まるのだ」という何とも言えない気持ちは今でも思い出すことがある。それからの10年間は主にオーケストラとしての基礎作りに力を注ぎ、様々なジャンルの音楽に挑戦し、コンサートの機会も多くなっていった。
その後のこの楽団の活躍は様々な資料が示している通りだ。
ふつうの人の常識では間違いなく尻込みしてしまう計画を現実のものにした敷島さんも、今は天国で満足しておられるであろう。
今回、古巣での30年振りの演奏会にあたり、会の成功と大阪交響楽団の益々の発展を心から祈っている。
大阪交響楽団 初代音楽監督・常任指揮者
小泉 ひろし