アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)
交響曲 第8番 ト長調 作品88
ドヴォルザークは、1841年、プラハ近郊のネラホゼヴェスに生まれる。家業の関係で、当初肉屋の職人を目指した彼が、ついに作曲を始めたのはようやく20歳のとき。その才能に着目し、世に出すべく強力に支援したのは、8歳年上のブラームスだった。徐々に国際的名声を高めてゆくが、なかでもイギリスでの大人気は特筆もので、それによって経済的にも余裕が出てきた頃、1884年に、ドヴォルザークは南ボヘミアのヴィソカーという地に別荘を買った。美しくのどかな田舎で創作に没頭するという、かねてからの望みを叶えたのだ。このヴィソカーの地が彼はたいそう気に入り、こんなふうに書いている。
「数日来、またこの美しい森にきて、これ以上ない好天のもと、素晴らしい日々を過ごしています。鳥たちの魅惑の歌には、感嘆の念を募らせるばかりです。(中略)作曲家はたいてい、森の鳥の歌から、創作上の刺激を受けるものです。そうして、最美のメロディが生まれるのです」(出版人、フリッツ・ジムロック宛ての手紙より)
交響曲第8番は、1889年に、ここヴィソカーで書かれた。ドヴォルザークの、最後から数えて2番目の交響曲にあたる(最後の交響曲は、あの有名な「新世界より」。のちのアメリカ滞在時に書かれた)。本作に関し、作曲者自身は次のようにコメントしている。「この交響曲で目指したのは、従来の交響曲とは違う作品、音楽的想念を、なにか新たな方法で音化するような作品を書くことでした」。
「新たな方法」を、筆者なりに名づけるとすれば、「連想法」となろうか。たくさんの魅力的な楽想―鳥の歌声も!―にあふれた交響曲だが、それら楽想の多くは、互いにその「身ぶり」を、そこはかとなく共有しており、連想がつらなる物語といった趣である。良き理解者ブラームスが、珍しく「断片的なもの、重要でないものが多すぎて、それが所在なげに散乱している」と批判的に評したのも、こうした手法に戸惑ったためであろう。ベートーヴェン以来の交響曲の伝統からすれば、テーマやモチーフを、きっちりと論理的に組み立ててゆくのが本筋だからだ。ドヴォルザークも、過去には第6交響曲などでそれを実践したが、ここへきて、「論理的構築」を無視しないまでも、相対化し、新しい道を模索し始めたのである。
第1楽章 次々と魅力的な旋律があふれ出すが、ただのメドレーには終わらない。冒頭の、中音域―チェロ、クラリネットほか―で歌われる物憂げな旋律(A)と、その後の、鳥の声のように弾むフルート・ソロ(B)をよく覚えておこう。(A)は展開部、再現部のそれぞれ開始を告げるし、(B)の弾むリズムは、随所に縫い込まれている。
第2楽章 これも物憂げな、ため息のような弦楽で始まる。葬送の足どりのようでもある。続いて、またもフルートが―オーボエと重なって―遠くにいる鳥の啼き声のように響く。弦も、フルートも、音階を昇るように3音から成るアウフタクト(弱起)で始まる。以後、ときに牧歌的、ときに悲劇的と、次々と新たな旋律が。
第3楽章 A-B-Aの3部形式+終結部の構成。交響曲の伝統からすれば、ここで激しい舞曲が来るところだが、ゆるやかなワルツ。またも物憂げで、3音から成るアウフタクトで開始。第2楽章の反響のよう。
第4楽章 トランペットによるファンファーレで開始。ここに、第1楽章の(B)のリズムがこだましている。次に、中音域(チェロ)でゆるやかな旋律が歌われるが、こちらは第1楽章(A)をどこか思い起こさせる。以後は、このチェロ主題の変奏ともみなせるし、この主題と別主題が交差しながら展開するロンドともみなせる。