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音楽の風景~外山雄三が見た日本の音楽界~

 
 
 
外山雄三 (C)K.Miura
 
外山國彦(写真提供:外山雄三)
外山國彦
(写真提供:外山雄三)
 
岡田九郎先生と私(写真提供:外山雄三)
岡田九郎先生と私
(写真提供:外山雄三)
 
有馬大五郎先生(写真提供:NHK交響楽団)
有馬大五郎先生
(写真提供:NHK交響楽団)
   
「音楽の風景(1)」 ~外山雄三が見た日本の音楽界~
 
二宮(以下、N) 当団の『PROGRAM MAGAZINE』誌に今号から長期連載として、外山さんのこれまでの音楽人生をつれづれなるままに振り返っていただいて、お話して頂ければと考えております。よろしくお願いいたします。
外山(以下、T) わかりました。
 
N まず、外山さんがお生まれになったのは昭和6年(1931年)ですね。
T 6年です、はい。
N 幼少期の外山さんは、どういう風にお過ごしになったのでしょうか。そして音楽とどのように出会われたのでしょうか?
T えっと親父(外山國彦 とやま くにひこ1885-1960)が山田耕筰(やまだ こうさく1886-1965)先生と東京音楽学校の同期で、という家でしたので、当時としては案外珍しかったのかもしれませんね、音楽家の家に生まれるということ自体が。で、私が最初にピアノの手ほどきをして頂いたのが園田清秀(そのだ きよひで 1903-1935)という方で、その方は園田高弘(そのだ たかひろ 1928-2004)さんのお父様で、あれはどうして園田先生と私の父が親しかったのか、とうとう聞かないで過ぎてしまったのでわからないのですが、父が園田先生にピアノの手ほどきをしていただく考えで、東京・牛込の自宅から園田先生の駒込のお宅にお伺いしました。
N それはおいくつの時でしょうか?
T たぶん3歳か4歳かと思います。もちろん母に手を引かれてレッスンに通ったのを憶えております。たぶんバスだったんじゃないかと思うんですけど…。
 園田先生はご自分が健康状態がいつも万全でいらしたわけではないので、そういうこともあってかと後になって思いますが、ニコニコして「いいよー、しっかりなさい」なんていうことでは全然なくて、いつでもなんか子ども心に怖い、まぁ今考えると不機嫌な顔してらしたんじゃないかと思います。で、そのお宅に伺うと、坊ちゃんがいらして、それが高弘さん。高弘さんとその弟さんがいらしたんだけど、レッスンして頂く順番を待ってると高弘さんが「おーいケンケンしよう。なーんだ、ケンケンも出来ないのか!」とか言われたのを、私はあんまり記憶がないんですけれども、付いてった母がそういう話を後でしてくれました。園田先生はさっき申し上げたように、にっこりなさって、「いいよ、上手に弾けたよ」なんて仰る先生ではなくて、いつでも厳しい顔つきでレッスンしてくださったんですけれども、それはそんなに長くなかったのではないかと思います。つまり先生がご病気で亡くなられてしまったので…。だから園田高弘さんは、お父様を早くに亡くしておられるんだと思います。
 私の父の國彦と園田清秀先生が、外国の例を見ると音楽家たちはみんな小さい時から音楽教育を受けている、だから日本の子どもたちも早くから音楽教育を受けなければならないということで、児童早教育、それから音感教育、つまり絶対音感を身につけさせようということを考えて、やり始めて…。そういうふうに子どもたちに音楽を教えようと思った頃がちょうど笈田光吉(おいだ こうきち 1902-1964)さんもそういうお考えで、あちらは自由学園を本拠になさってらっしゃったのだと思います。で、笈田さんは後に、「音感教育をやっていると、アメリカの飛行機が日本爆撃にやってくる、その爆音を聞いただけで飛行機の種類がわかる!」、と仰って、そりゃそうなんでしょうけど、それは音感教育と関係ないだろう思うんですが、ご存じのとおり戦争中ですからねぇ…。
 それで子どもたちにそれまでの日本のいわゆる洋楽の教育にはなかった早い時から音感教育をする。で、いつから音感教育が絶対音感教育になったのか、あるいは初めから絶対音感教育だったのかは、私はその先生方、あるいは親父に確かめることはなくて過ぎてしまったので、残念ながらはっきりわからないのですが、親父から直接聞いたのは、絶対音感教育という言葉でした。園田先生や親父が鍵盤を叩くのを、私たち子どもは後ろ向きになって鍵盤を見えないようにして、「ラ!」とか「ド!」とか答える。そのうちに二音一緒に弾く、それから三和音になって、それから『ぐちゃー』って弾くなんていうのを当てさせられて、子ども心にそれは難しいとか、嫌だとかっていうんじゃなくて、なんとなく面白くて、当たると褒めてもらえるんで、そういうようなのが音感教育の始まりだったと思います。ピアノでそれをやりましたので、自然に絶対音感が身についたんじゃないかなと、今になってそう思っています。
 そういう小さい子どもから音楽教育をするということがそれ以前にはないので、もちろんはじめはピアノを弾くのも片手からですから、何を弾かせるっていうテキストが全然ない。そのテキストを作るというところから園田先生や、途中から有馬大五郎(ありま だいごろう1900-1980)先生もヨーロッパからお帰りになって参加されて、うちの親父もその例題を作って、それをお袋がひとつひとつゴム印で押してテキストを作ったそうです。
 有馬先生は非常にきっちりした方で、ご自分が何でも出来るという風にお思いになったわけではないし、それから、国立音楽学校の教師になられて、しかもたぶん当時土川正浩(つちかわ まさひろ 1906-1947)先生に頼まれて、音楽学校を充実させるということに一所懸命になっておられて、だから国立にお住いになられたのでしょうけど…。有馬先生がウィーンに長くおられたので、当時は子どもがピアノを始めるとバイエルからだったし、出回ってる楽譜もバイエルといった具合でしたから、もちろんそれもやるんだけど、その前にその全音符は4拍のばす、二分音符は2拍…というような基本を有馬先生が子どもたちに教えるテキストの中身をご自分でお作りになって、それをうちのお袋が非常に幅の広い五線を引いて、それに音符のゴム印を押して作ったそうです。
 それで児童早教育を実践する『外山國彦音楽教室』には園田先生や親父、それから後にあの国立の校長におなりになった岡田九郎(おかだ くろう 1905-1989)先生、これはたぶん有馬先生のお知り合いでいらして、参加されたんじゃないかと思いますが、教師として来てくださって、私は岡田先生にずいぶん丁寧にピアノを教えていただきました。
N 有馬先生はどのような関わりを?
T 有馬先生はときどきお見えになるだけで…。今でも忘れもしないことがあるんですけれども、それは「音楽っていうのは必ず『山』がある。『山』って言ったって、雄坊、君には解らんだろうけど、それは【やきもち坂】を上がって来る、あれが『山』だ。で、【やきもち坂】をちょっと下がると家へ来るだろう、あれを『山』と言うんだ!音楽には必ずそういうものがある。」と仰ったのをとてもよく覚えてるんです。先生は人をお教えになることについて、非常にはっきりお考えを持ち、人を教える優れた能力をお持ちだったんだろうなぁ、と時々思い出します。
 もうちょっと後になって、東京にアメリカ軍の空襲が始まって、防火訓練なんてのを隣組で度々やりまして、そうするとどっかの家に焼夷弾が落ちた、と言って、水をかけて、火たたきで壁なんかを叩く。そうすると普段「何よ!」と思われてる家が標的になるんですよ。たぶんご近所からは、「外山國彦さんちの外山音楽教室なんてのは、兵隊さんが戦地で命がけで戦っているのに何だ!」と思ってた人がどうも少なくなかったらしくて、防火訓練になると必ず「外山に焼夷弾落下!」ってことになって、皆さんがバケツでジャージャー水かけて、火たたきで壁をバンバンやるんですよ。それはそんな恐ろしいことだと思わなかったんですが、記憶に残ってます。それと、今の新宿区、当時の牛込区加賀町という所に家があったんですが、20分くらい歩くと、あの~…、それこそあそこは何だったんだろう…。
N 陸軍ですね、市ヶ谷の。
T そうそう、陸軍士官学校。その頃戦争のためだというと、どんどん大きなお家を政府が接収して、兵隊さんたちを泊めたりしてた。うちのお隣の大きなお屋敷がそうなって、そこに将校たちがいたんですが、私たち一般市民は食べるものもあまりなかったのに、その兵隊さんたちは毎晩大宴会してるな、と思っていました。
 その後戦争がどんどん激しくなっちゃたもんですから、親父が私にピアノが弾けるようになる教育をしてくれた目的が何だったのか、まったく解らなくなってきましたし、それどころではなくなったというのが本当のところだったかも知れませんね。
 
 
「プログラム・マガジン」2017年度9・10月号掲載 
 
 
 
 
 
   
「音楽の風景(2)」 ~外山雄三が見た日本の音楽界~
日本音楽界の重鎮であり、わが大阪交響楽団のミュージック・アドバイザ-としてまさに「現役」真っ只中の外山雄三さん。その外山さんの音楽人生を、自らの言葉で語っていただく連載シリ-ズの第2回。東京音楽学校時代のお話です。 【聞き手:二宮光由(楽団長・インテンダント)】
 
外山(以下、T) うちの親父(外山國彦)がたまたま山田耕筰先生と同期で、親父が若い時に音楽会をやったんだそうです。親父の若かったころに音楽会をやるっていうこと自体が非常 に珍しいことで、一般の方たちには『音楽会』ってなに?っていう時代だったようで、藤原義江(ふじわら よしえ 1898-1976)先生がずーっと後になって私によく仰ったのは、「麹町を歩いていたら紅白の幕が貼ってあって、何だろうと思ったら、『外山國彦独唱会』って書いてあって、何するんだろうと思って中に入ってみたら、お前の親父さんが歌ってた。」と仰ったんですけど、藤原先生は話を面白くするのがお上手な方だから、お言葉通り本当かどうかは分かりませんけれども、たぶんそういう時代であったのであろうと思います。あれはいつかな?そこ(注:ご自宅のリビングの壁を指さして)に『外山國彦独唱会』のポスターがあって、6月30日が土曜日だった年代を調べりゃわかるんです(注1:1928年)けど、その頃はもちろん日比谷公会堂はありませんし、日本青年館でということだったらしいのですが、なんでそんなことができたのかが、その頃の私にはちゃんと想像出来なかったんです。
親父が東京音楽学校で勉強していた時代には、外人教師がたくさんいたんです。たとえばアウグスト・ユンケル(1868-1944)さんという、これは本当に素晴らしいヴァイオリニストだったらしいんですが、日本に留まることになって、そのユンケルさんのお孫さんが僕の小学校からの同級生の岩倉君です。それとあの人は時代はいつなんだろうな?マリア・トール(生没年不明)っていう、なんかすごい大柄の女性がいらして、その方をなんで私が存じ上げているかというと、私が生まれ育った東京牛込のすぐそばの市ヶ谷の駅、山側なんですけれども、東京音楽学校の官舎があって、そこにお住まいだったんだろうと思います。そしてピアノはレオニード・クロイツァー(1884-1953)さんと、レオ・シロタ(1885-1965)さんで、簡単に言ってしまえば、ナチスのユダヤ人迫害を逃れて日本に来ちゃったのは当時は正しかったのかどうか分からないけれど、日本にいらしたおかげで私たちは大切なことを非常にたくさん教えていただいたと思っています。シロタさんは皆さんご存知だと思いますけども、例えば園田高弘さんの先生でらして、素晴らしい教師でした。

二宮(以下、N) クロイツァ-さんは?
T クロイツァーさんは帝政時代のロシアで音楽教育を受けて、後に日本にいらして、いろいろ素晴らしいことをなすったんです。たぶん指揮の経験があんまりないのに、戦後の一時期N響を指揮なさった。で、私はまず記憶に残ってるのは、指揮じゃなくて、当時荏原にあった昔のN響の練習場。これは自動車工場だったところを、ちょっと簡単に直して練習場の格好にした。つまり改修費用が安かったんでしょうね。で、そこにピアノが2台入っていた。今考えればセミグランドぐらいの大きさで、もうオンボロで、私が知っている時は戦争直後ですから調律もちゃんとしてないので、クロイツァー先生が独奏者の練習にいらしてお弾きになったら、普段とまるで違う音がしたんです。「うわーっ、あのピアノで名人が弾くとこうなるんだ!」と思ったんですが、そんじょそこらの名人じゃたぶん駄目で、クロイツァー先生のようなほんとに飛び抜けた歴史に残るような音楽家じゃないとそんなこと起きないだろうと思いますが、そういう経験をしました。クロイツァー先生の指揮は、本業の指揮者でらしたわけではないので、カッコよくない。なにしたいんだかみんなが一生懸命判ろうと思って見ててもよく解らない。簡単に言えばね。そんな所がたくさんあったんですけれども、でも先生がこうしたいんじゃないかって、みんなが一生懸命神経を張り巡らして、ということから生まれたその独特な緊張感があって、私の記憶に一番残ってるのは『第九』です。

N それは戦後ですか?
T もちろん戦後です。で、独唱者がどなただったのか、合唱がどこだったのか調べればすぐ分かることですが、私は覚えていません(注2:1948年6月14&15日 日比谷公会堂)。ですがどこが印象に残ったかというと、第4楽章の途中でテノールのソロで行進曲に入って、あそこの第一拍が休みで、『いちっ、ジャン!』って。それがね、なんともあんなにいい音がしたことは今まで聴いたことないです。ご存知の通り、あれは大太鼓とシンバルとトライアングルだけなんです。ものすごくいい音がしたんです。あれなんだったんだろう!と、今でも。で、先生が「俺の棒についてこい!」だとか、「どうだ、凄いだろう!」ってなこととは全く反対に、「こんなものでいいんだろうか?」みたいな部分がたくさんおありになって、そんなこともちろん仰いませんけど、いつでも半分照れてらっしゃるみたいに私のような若者には見えた。でも『第九』全体は凄かったですね。たぶん今聴いても「わーっ、凄いな!」と思うだろうと。なんかこう手をグルグル回してらっしゃるだけに見えるんですが、みんな先生が考えてらっしゃること、おやりになりたいことが解って、必死に追いて行ったということはあります。
クロイツァー先生でもうひとつ非常に強烈な思い出は、N響の定期、もちろん日比谷公会堂ですが、そのころ夜は進駐軍が日比谷公会堂を使うので、日本人は昼間しか使えないという時代が長かった。その昼間に定期演奏会をやっていて、グローフェの「グランドキャニオン(大峡谷)」を日本初演なさったんです(注3:1949年9月24日/26日 日比谷公会堂)。で、なんでクロイツァ-先生がね、グローフェの「グランドキャニオン」なんて…、これ以上は言いませんけど、「ハハハ、やろう!」とお思いになったのか、それとも当時は現在の私たちは想像もできないほど、占領軍の意向が非常に強かったので、アメリカの現代の作品をやれと、いうことがあったのかもしれないなあと想像しているだけですけど…。そういうことについて愚痴をおこぼしになったりすることは決してなかったのが有馬大五郎先生なので。だから「アメリカにやられたな」みたいなこと一度も伺ったことがないんです。私のほうがもう少し物事がわかっていて、伺っといたら良かったな、と今になって思いますが、当時は思いもつかなかったですね。それとなんだったっけ、敵国を占領した国としては当然のことだろうと思いますが、いわゆるその情報活路が非常に盛んだったのでアメリカを経由してしか外国の楽譜は入ってこない時代だった。しかも日本では売ってないので、見るだけのためにアメリカの、あれ何てとこかな。CIEかな、CIAじゃないです(注4:民間情報教育局)。が日比谷にあって、そこの図書館へ私たち音楽学生は楽譜を見に行きました。ですから私の同級生の間宮芳生(まみや みちお 1929-)とか、諸井誠(もろい まこと 1930-2013)とかと一緒に何度か行った記憶があります。

N それは閲覧だけですか?借りられたりしないのですか?
T 閲覧だけです。貸し出しはもちろんなしです。それと第一生命ビルにGHQがありました。だからなんかあの辺りは半分アメリカだったんじゃないか、って感じでしたよ。それに当時は交通機関もそんなに今のように便利じゃありませんから。
話は飛びますが、当時『赤い靴』って言う映画があった。それから踊った人は忘れたけど、作曲者は(注5:ブライアン)イースデイル(1909-1995)と言う人で、それが凄いらしいということで、諸井誠とふたりで映画を見に行きました。そしてふたりで興奮して、バスに乗ってそのまま帰るのが嫌だから、歩いて帰るとか言って、意味もなくどこまで歩いたんだろう、日比谷から飯田橋ぐらいまで歩いたんじゃないでしょうか。ふたりとも興奮してたんでしょうね。多分『日比谷映画』じゃなくて『スバル座』って言うのが有楽町の駅前にあって、そこだったかなぁと思います。
そんなこんなで私たち作曲学生が、東京音楽学校在学中は外国から楽譜が輸入されてくると言うことはほとんどあり得なかった時代で、それは今の皆さんには想像すらつかないと思いますが、外貨の割り当てというのがあって、みんなが外国のものを自由に買ったりできる状態ではなかった、って言うことがありますので、どっか昔から楽譜を集めてるところを探し当てて借りたり、借りたものを必要だったら自分で書き写す。で、さすがに私もオケのスコアを書き写してないと思いますが、ピアノを教えていただいていた永井進(ながい すすむ 1911-1974)先生が「外山君、この次はこれをやってきなさい」と仰ったものを拝借してきて、自分で写して、次のレッスンには先生にその拝借した楽譜をお返しして、自分で写したもので弾く、って言うようなことがとても普通の時代でした。私が今記憶に残っているところで言うと、プーランクの『無窮動』、それからスクリャービンの『ノクターン』などというのは自分で書き写した楽譜でレッスンしていただいた記憶があります。それから先生が「外山君、そろそろモーツァルトじゃなくて、ラフマニノフのコンチェルトの1楽章だけやってみよう」と仰って、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を課題に下すって、それも先生から拝借した楽譜を、どうだったんだろう、写したのかな?それは残ってないんですけども。もちろん私だけじゃなくて、皆さんそういう時代でしたから楽譜そのものはない。それはアメリカ軍の情報センターに行って借りて来る、と言う時代だったんだと思います。ですから外から入ってくる情報に非常に飢えていた時代だったんです。

N 今となっては私たちは想像すらできない状況だったんですね。
T 戦後すぐにはそれこそラジオはNHKだけで、テレビはもちろんありませんから、NHKのラジオを聞くしかなかったので、私はNHKのラジオから流れてくる音楽で気になったものを書き留めておいて、後でこうやって清書したんですけど、特にプーランクが気に入ったので、最初のペ-ジにあるんですね。
放送を耳で聞いているので、聞き間違えたのか、違う名前を書いてあったりしてるのもあるんですけども、そんな風に当時は何にも資料がないので、自分で書き留めておいたものが頼りになったのですが、当時の日本の呼び方が『バルトーク』じゃなくて『バルトック』と言ったのがここには書いてあったりして、恥ずかしいものなんですけれども、当時の私にとって新しいなぁと思ったものを書き留めていました。
音楽学校に入って、諸井誠と間宮芳生が同級生にいて、間宮芳生はご存知の通り青森の出身ですが、青森出身の音楽家としては多分、絶後とは言わないけど、空前の大秀才だったと思うんですけど、都会の子どもたちが接しているような情報は、当時の青森ではそれほど届いてなかったんだと思います。彼のお父様も音楽に非常に詳しい方で、多分青森の先生でいらしたと思いますけど、そういう意味では環境は整っていたはずです。けれども、それで諸井誠の家、つまり私たちの先輩、諸井三郎先生のお宅は中野だったんですね。私の家は牛込だったので、当時の国電の飯田橋で僕は降りるんです。それで市電に乗って家に帰る。諸井は中野だったんで、飯田橋までいつも帰りはほとんど一緒だった。後で聞いたんですけど、気持ち悪いことに「諸井と外山は同性愛じゃないか?」と教授会でどなたかがふざけて仰ったんだと思いますけど、それぐらいふたりは仲が良くて、それこそ用もないのに飯田橋で降りて、ふたりで靖国神社の境内まで行って話し込んだりしたこともありました。
音楽と関係ないことを言えば、学校で秋に『芸術祭』と称する学生たちのお祭りがあって、そこで模擬店を出そうって言う話になったんでしょうね、きっと。でも当時、そんなこと言ったって食べ物が潤沢にあるわけじゃない時代だったのですが、諸井が中野に闇市が出て~闇市なんて言葉が日常に通用していた時代ですから~そこに何かおまんじゅうがあるからそれ買ってきて売ろうかって、確かそんなこと言って模擬店で売ったら、大人気であっという間に売れたような記憶がありますが、そういう時代でした。
ですからさっきからお話しているように、音楽上の情報もまぁほとんどがアメリカから入ってくる。ヨーロッパから入ってくるルートがなかったんですよね。今では考えられないけど。なので私たちはレナード・バーンスタイン(1918-1990)はあんまり記憶にないんですけれど、でも結構アーロン・コープランド(1900-1990)とか、サミュエル・バ-バ-(1910-1981)というアメリカの作曲家たちの名前を先に知ったんだと思います。それからもうひとつの頼りはNHKのラジオでしたので、テレビはありません(注6:1953年から放送開始)から、そこでNHKが多分一生懸命流していた音楽ですから、時代も時代ですけど。
私たちが知っている名前というと、ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)やヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)、それからちょっと戻ればエフレム・ジンバリスト(1889-1985)で、ヴァイオリンの江藤俊哉(えとう としや 1927-2008)さんがジンバリストに師事して留学するためにアメリカに行かれるのに、民間人は飛行機なんかに乗る時代じゃありませんから、船で行かれたとすると、ふた月か、ふた月半かかるっていうのがどんなことか子どもだから想像できないんですよ。なんだけど大変だなと思いました。
私が幼少期を過ごした牛込の家の隣にとても秀才なお嬢さんが居られて、僕より1つ上か、もう2つ3つ上だったと思いますが、アメリカに留学なさって、それももちろん船で行かれて。今考えるととんでもないですよね。そのうちに音楽家の中でヨーロッパに留学する人もぽつぽつ出てきた。そうするとその時に必ず私たちが聞かされたのは、絵描きさん達もパリへ勉強に行くために船に乗って行くんだけれども、2ケ月とか2ケ月半くらい揺られてマルセイユに着くと、持ってたお金がなくなってるから、そこからパリへ行くお金ないから、船を降りて何かいろいろやってるうちに、絵描きさんでも何でもなくなって、レストランで働くようなことになるんだ、みたいな話を聞いた記憶があります。それは全部本当だったのか、そうでもなかったのかは分りません。
私たちの作曲の先輩で、ヨーロッパに行ったのは誰なんだろう。すぐ前は黛敏郎(まゆずみ としろう 1929-1997)さんや矢代秋雄(やしろ あきお 1929-1976)さん。僕の1年の時の4年生で矢代秋雄さんは多分非常に慎重に準備をなさって、お父様も高名な方でらした(注7:矢代幸雄 やしろゆきお 1890-1975 美術史家・美術評論家として活躍)から、いろいろな心配が混ざっていらしたのではないかと思います。
 
 
 
「プログラム・マガジン」2017年度12月号掲載 
 
 
 
 
 
   
「音楽の風景(3)」 ~外山雄三が見た日本の音楽界~
日本音楽界の重鎮であり、わが大阪交響楽団のミュ-ジック・アドバイザ-としてまさに「現役」真っ只中の外山雄三さん。その外山さんの音楽人生を、自らの言葉で語っていただく連載シリ-ズの第3回。前回に引き続き、東京音楽学校時代のお話です。 【聞き手:二宮光由(楽団長・インテンダント)】
 
外山(以下、T) 黛敏郎さんはどうだったのかな、よく分からないんです。でも横浜のご出身だったので、当時としては考えられないほど外国人との接触があって、といってもアメリカ人達となのかな。東京音楽学校在学中に派手な真っ白いパンツにコンビの靴とかね、当時としては誰も考えられないようなファッションでいらしたり、それから、非常に器用にピアノをお弾きになったので、でもピアノが上手だとは言いません。むしろ上手じゃなかったです。ですが器用にお弾きになったので、新橋のナイトクラブでピアノを弾いていらしたって言う話を聞いたことがあります。実際に拝見したことはないんですけどね。だからその頃からいろんなところで黛敏郎さんは、海外の情報をお集めになる。アメリカの事も、ヨーロッパの事も。でそれはどういうことかというと、音楽上の新しい技法を手に入れることにもつながったんです。当時、みんなが「それって何?」って言うような12音、ドデカフォニーを日本で真っ先に唱えられたのは黛さんではないか、と思います。
もちろん、先輩の入野義朗(いりの よしろう 1921-1980)さん、戸田邦雄(とだ くにお 1915-2003)さんあたりの方たち、つまり諸井三郎(もろい さぶろう 1903-1977)先生門下の方たちがいましたが、その方達が積極的に作曲活動なさったのも、私が学校卒業するかしないか位の時からです。特に入野さんは非常に理詰めなんだけど、精密なオーケストレーションで、オーケストラ曲をお書きになりましたから、私は今でも入野さんの『シンフォニエッタ』と言う曲を聴いたときのことを覚えてますし、自分で演奏させていただいたときのことも記憶に残る位、当時としては多分飛び抜けて精緻精密な譜面だったのではないかと思います。音楽そのものについての評価は私はわかりませんけれども、楽譜は非常に整ったものでした。それに、原稿用紙に後からこう吹き出し書いて、何か言葉を書き加えることあるじゃないですか、
二宮(以下、N) はい。
T それが五線の上に吹き出しになって書き加えてあるのが、私にとっては入野さんの譜面の特徴でした。だからこんなにきちんと知的で整理された作品をお書きになる方が、こういうことをするのか!こういうことってのは悪い意味じゃありません。こんなこともなさるんだなぁと思って記憶に残りました。
私たちの直接の先輩すぐの先輩は矢代秋雄、黛敏郎。そのちょっと上が芥川也寸志(あくたがわ やすし 1925-1989)、その1つか2つ上が團伊久磨(だん いくま 1924-2001)なんですけれども、世の中全体を見渡せば、戸田邦雄さん、戸田さんはなんで印象に残っているんだろう。あの方お役人でしたので…。
N 私は存じませんが…。
T 多分現役のお役人だった(注:外務省に入省、外交官としてドイツやソ連などの大使館に勤務した)。「だからきちんとしてるんだな」とか、生意気な後輩が言えば、「だからつまんねーんだなぁ」とか、正直に言えば思いましたけれども。でも次から次とオーケストラの曲も発表なさいましたね。それに信時潔(のぶとき きよし 1887-1965)先生、それから私の恩師である下總皖一(しもおさ かんいち 1898-1962)先生というようなアカデミズムのグループに、アンチ・アカデミズムのグループというような形で池内友次郎(いけのうち ともじろう 1906-1991)先生が東京芸大の教授だった。そうするとそれのもっと外れた感じで伊福部昭先生もいらした。それで伊福部昭(いふくべ あきら 1914-2006)っていう名前に憧れて黛敏郎さんや芥川也寸志さんが、もう学校を卒業してらしたのに、伊福部先生に会うために学校へしばしばお見えになったのだろうと私は思ってるんですけれども、事実は違うかもしれません。
N 学生時代の思い出はいかがでしたか?
T 学校時代について、何かあったかな…。週に1回だったと思うんですが奏楽堂で学内演奏会がありまして、いろんな科の学生が「私、やります!」って申し出てやる。そこでは作曲科の学生も、自分の作品を演奏してくれる仲間がいれば作品を出せるんですけども、私の先生は下總皖一先生と言う非常にアカデミックな、ヒンデミットの弟子でらしたんですけれども、その下總先生が、私の同級生の諸井誠がある時、ヴァイオリンソナタを発表することになった。戦後間もないころですから、学生の演奏会でも先生方もたくさん聴いてくださったんですね。下總先生もその音楽会をお聴きになって、翌朝、私がレッスンで伺ったら「昨日の諸井くんの作品はねぇ、おしっこ我慢するのが大変だったよ」と仰って。そういう、さらっと面白いことを仰る先生だった。ですけど非常に真面目な、非常にアカデミックな先生で、それを見込んで有馬大五郎先生が「下總さんに教えてもらえ!」と仰って下さったんだと思うんですね。
それと、N響に入るためには何をしなければいけないかというふうに有馬先生がお考え下さったらしく、N響に入るってのはどういうことかって言うと、当時日本の若者が指揮者を志望するなんて言う事は想像もできない時代だったから、作曲するのにオーケストラをよく知っている必要があると有馬先生がお考えになった。それには「お前さん、フルートが上手な訳でも、ホルンが吹ける訳でもないだろう。そしたら打楽器を少し勉強して、もし打楽器で雇ってもらえる場合は雇ってもらったらどうだ」なんて本当は雇うのは有馬先生だからと思わない事はなかったんですけれども、それで「小森のところに行け」って小森宗太郎(こもり そうたろう 1900-1975)さん、名物ティンパニストだった人です。私は今だにあんなに良い音のティンパニを聴いたことがないと思う位です。
で、小森宗太郎先生の素晴らしい音のティンパニと、もし比べられる人がいるとしたら、仙台フィルに来たライナー・クイスマ(1931-)というティンパニが凄かったのを思い出します。これはもう、その音色はね、比べようがない。人が真似出来ない。小森先生もクイスマさんも。その素晴らしい音の小森先生のティンパニを日常的に聴きました。現在のティンパニストたちの技術は多分凄いんだと思います。やれないことはない位。でも、音そのもの、音質、音色は、もしかすると小森先生や、クイスマさんのところまではまだ届いてないのかなと思うことがあります。ここでもうちょっと良い音したら、もっと素敵なのに、とかね。
当時のN響には創立メンバーがたくさんいました。ですから、もちろんヨーゼフ・ローゼンシュトック(1895-1985)の事は、もうもの凄い記憶、猛烈な記憶に残っている皆さんでしたが、もう少し前をご存知の方は、近衞秀麿(このえ ひでまろ 1898-1973)先生に日常的に接していた方もいらした。近衞先生がオーケストラを引っ張っておられた、あるいは多分これは正確な記録があるのかどうか知りませんが、近衞先生はご自分の財産を持ち出して、オーケストラのために使っておられたのではないかと思ってるんです。だからその後に近衞先生がまだお元気だった時代に私は、近衞先生がN響を指揮なさるのを何度か練習から拝見しましたし、近衞管弦楽団、その後はなんて言いましたっけ?
N ABC交響楽団ですね。
T そうそう、そのABC交響楽団の練習も演奏会も拝聴したんですけど、あのお公家さん言葉でらして、「皆さん、何とかしてくださいましよ」と仰るんですよ。でそれを普段皆で普通に聞いてるんだけど、気に食わなくなると「何がましよだ!」とか言う奴もおりまして、楽員の中には。でも近衞先生が私の見た限りでは、本当に音楽がお好きで、音楽を大切に思っておられて、「自分はこの楽譜をこう読む、だからこうやってみてくれ!」と仰っていらしたんだと思いますし、それからあの時代の、ほかの日本の音楽家たちが経験したことのない、ヨーロッパのオーケストラといろいろな経験をなさってらした。って言う事は、これはちょっと比べ物がないですよね。ということで近衞先生という方の存在は、日本のオーケストラにとって、とても大きなものであったんだろう。例えば書物なんかを読むと、初期のN響を旗揚げしたとか、一所懸命育てたっていうことになっちゃいますけれども、それよりもっと根本的なというか、根源的なオーケストラと言うものはとか、あるいは音楽というものについて近衞先生はいろいろ豊富な経験をなさっていらしたし、いろいろ深いお考えもあったのではないかなと思います。
そんな先生なのに、大阪フィルをずっと後になってですけど指揮なさった時に、私がたまたま大阪フィルと親しい時代で、先生が確かベートーヴェンの交響曲第7番だったと思いますけれども、指揮されたときの練習を拝見した時に、「外山君、この楽譜見てて、気が付いたところにマークして、後で言ってよ!」と。とんでもない、恐れ多い神様のような方がそう仰るって事は、なんだろうなぁと思いました。そういうのをご覧になって、その少し後から朝比奈隆(あさひな たかし 1908-2001)先生も「外山君、これ見ててくれ」なんて。そんなこと決して仰らないタイプの、皆さんよくご存知の指揮者でしたけれども、朝比奈先生は。「私はこうやる!」ってお思いになるのが魅力の方でしたけれども、近衞先生がいらしてちょっと後から、私が練習に参上すると、スコアを見ててくれと仰るようになりましたから。朝比奈先生みたいな大指揮者にとっても近衞先生はお手本だったんだなと思いました。
その昔の、私がもちろんまだ全然N響と関係ない時代の、昔のN響メンバーたちが近衞先生に付けたあだ名が『フルトメンクラウ(注:振ると面食らう。フルトヴェングラーの指揮が明確でないところからもじった)だったそうですが、近衞先生の指揮姿をよく見るとそんなことないですよね。それとのつながりでいうと、(本家の)フルトヴェングラーでも解んないように見えるけど、ちゃんと解るじゃないのっていう映像も残っていますけれどもね。だからと考えると、今私がやっている指揮という仕事は、ある意味怖いです。とても怖いです。皆に解りやすく振ると、能率的でいいだろうと私なんか単純に思ってしまうんですけど、解りやすいだけが取り柄でもないだろうというと、じゃあ、なにを解らせればいいんだろうっていうことになるかもしれません。ですが私にとっては未だに判らないのです。なにを解らせればいいのか。で、作曲者の望んだ事を実現するために演奏者は存在していると考えると、作曲者が望んだことってなに?っていうのは、なにか手掛かり、それはもちろん楽譜なんですが、楽譜は何度も何度も同じことを申し上げますが、非常に大雑把で細かい事は書けないことがある。それをどうするっていうのを決めなきゃなんない役割ですね。ですから決めなきゃなんないから決めるなんてのは嫌ですけど、だけどそういう役割ですから決めますが、それが正しかったのか、そうじゃなかったのかを判定するのはどなたかということです。一言でかっこよく言ってしまうと、それは聴いて下さるお客様達に違いないですが、じゃあ聴いて下さる方達の判定の結果はどこに出るのかっていうと、それは盛大な拍手だけではないと思います。盛大な拍手は演出しようと思えば出来ますよね。
N はい。
T ある程度の人数を集めて、「わー!」って叫びながら大きな拍手をすれば、それはそれで効果があります。でもそれだけではないだろうと思うと、あいだの色々な事を飛ばして切り詰めて言うと、自分で自分を判定する能力をどうやって保てるか。夢中になって、汗だくになったから『おー、やった!』って言うんじゃマラソンと同じになっちゃうんで、それじゃなに?って言われると説明が難しいっていうか、自分でもわからないところもあります。簡単に言うと、自分の中でちゃんとやれたか、やれないかをどんどん突き詰めていく。作曲者や作品に申し訳ないことをたくさんしてしまったか、それとも今の自分にできる事は今日はほとんどやれたかみたいな。言葉で言ってしまうとね、とても安っぽくて嫌なんですが、そういう部分もあるかなと思います。ですからそれは例えば私が初めてオーケストラを指揮したのはベートーヴェンの交響曲第5番でしたけれども、オーケストラと指揮者の関わり方、それからオーケストラと作品の関わり方、それからその時に聴いて下さった方たちとの関わり方、それはもちろん音楽を通していろんなことがあるので、口では説明できない部分もあるのかなあと思います。ごめんなさい、なんか言葉足らずで。
N いえいえ。
T 話がぐちゃぐちゃ行ったり来たりしてすみません。
N 近衞秀麿さんはもっと再評価されてしかるべき人じゃないかと私は思うんですけれども…。
T そうですね。まったくその通りです。
N 特に晩年、ちょっと近衞さんにとっては不幸な形になってしまったように思えるのですが…。
T そうですか。
N それで評価が下がってしまったような…。
T そうですね。だから晩年どこそこオーケストラの音楽総監督であったとか、常任指揮者であったとか、ということが人に「あーそうなの、凄いね!」って思わせるような形では残っていませんね。
N まあ、それと近衞さんが作曲した作品とか編曲したものがありますけれども、そういうのもこんにち全然取り上げられることもないので。
T そうですね。
N 2023年が近衞さんの没後50年の年なんですよね。
T あっそうですか。じゃあその時に皆さんがいろいろとやって下さると嬉しいです。
N 私が思うに、近衞さんは評価されなければいけない音楽家のひとりなので。最近、少し再評価されつつありますけれど。
T あれほど本格的にシンフォニーオーケストラというものをご存知だった音楽家は、当時は皆無だと私は思ってます。そういうお話がお上手だった山田耕筰先生などは、「オーケストラを知っていた日本の音楽家は、当時は俺だけだ」、なんて仰りそうですけど、近衞先生ほどきちんとオーケストラというものをご存知で、しかも感じ取られた方は、当時としては先生おひとりだったのではないかなぁと。詳しく調べたわけではありませんが、私は思っています。それと、あの世の中で近衞秀麿っていうとすごい自分勝手でわがままでっていう風に誰かが思わせたようですが、誰だか知らないけど。でも、近衞先生は、少なくとも私が直接存じ上げた晩年の先生はそんな事は全くなくて、非常に謙虚に音楽と接しておられた部分が多くて。あの女性関係もね、人様が特に晩年言ってらしたように、なんでもいいから良い女がいたらモノにしちゃうみたいな方では全くなくて、という様に私は思ってるんだけど。
 
 
「プログラム・マガジン」2017年度1・2月号掲載 
 
 
 
 
 
   
「音楽の風景(4)」 ~外山雄三が見た日本の音楽界~
日本音楽界の重鎮であり、わが大阪交響楽団のミュ-ジック・アドバイザ-としてまさに「現役」真っ只中の外山雄三さん。その外山さんの音楽人生を、自らの言葉で語っていただく連載シリ-ズの第4回。今回は先輩方の思い出話です。 【聞き手:二宮光由(楽団長・インテンダント)】
 
外山(以下、T) 私たちの時代の先輩という事は、日本で指揮と言うものが始まった頃ですよね。つまりは山田耕筰先生であり、近衞秀麿先生であり、お二人よりも少し若い尾高尚忠(おたか ひさただ 1911-1951)さん…。
二宮(以下、N) 尾高さんは、そのお二人から比べれば若いんでしょうけれども…。
T そうですね、尾高さんは39歳で亡くなっている、39歳。オレ、倍以上生きてるなぁ…。だから山田耕筰先生も存じ上げていたし、近衞先生にも直接教えていただいた。近衞先生と朝比奈先生の年齢差はどれぐらいですか?
N 近衞さんが1898年生まれ、朝比奈さんが1908年生まれですね。ちょうど10歳差です。近衛さんと朝比奈さんの年齢差は、カラヤンとバ-ンスタインの年齢差と同じです。
T ああ、そうですか。朝比奈先生には申し訳ないんだけど、山田先生とか近衞先生はもうプロフェッショナルでらして、朝比奈先生はアマチュア…。だからアマチュアの良さも強さもお持ちだったと思います、先生は。
僕が大先輩と思える方達と言うのは山田耕筰先生、近衞秀麿先生。作曲家で言えば信時潔先生で、その山田耕筰先生も近衞秀麿先生も直接お目にかかったし、信時先生は、東京音楽学校の入り口の脇に、先生方がご出勤になると、名札をひっくり返す所があって、よくお目にかかった。僕が非常に残念だと思うのは橋本國彦(はしもと くにひこ 1904-1949)さんにお目にかかってないことなんです。ウチの親父も音楽家だったんで、昔の神保町に楽譜の十字屋があって、そこでよく橋本國彦さんと出会ったと聞いてます。ウチの親父も國彦だったんで、國彦さん同士でなんか親近感があったんでしょうかね。だから僕は橋本國彦さんにお目にかかれなかったのがとても残念です。それと本当はそんなはずないのに、すぐ上の先輩だと思ってた黛敏郎も、矢代秋雄も、芥川也寸志もみんないなくなっちゃった。やっぱり戦争の関係もあるんでしょうかね。健康状態も。よくわかりませんけど…。
N 信時潔さんの事ですが、最近、交声曲『海道東征』がまた脚光を浴びているのですが…。
T ああそうなんですか。それは右翼的なこと?
N どちらかというとそっちに近い感じで…。ちょっといびつな形で再評価されているという風に感じてまして、2015年と2016年に大阪で大阪フィルが演奏して、2017年の春に東京で東京フィルさんで…。
T 誰が指揮を?
N 2015年は北原幸男さん、2016年と2017年の東京は大井剛史さんが。それと、2015年は信時潔の没後50年の時に東京芸大で…。
T これは政治がらみとは関係ない。
N まぁ。『海道東征』だけなんですけれど、脚光を浴びていて…。浴びること自体はいいのですが…。
T ええ、そうですね。
N そうです。でも、政治的な要素が絡んできて…。
T 先生の為にも良くないね。
N ちょっと嫌だなぁと思うんですけども。私も2016年の大阪公演を聴きに行ったんですけど、作品自体は僕はもともとから非常に興味があったので。
T あっそうですか。聴いたことないです。
N 北原白秋(きたはら はくしゅう 1885-1942)の詩で、内容は後の神武天皇が、高千穂の地から東征して、橿原の地まで上るという、まぁ、ある意味日本の『ニーベルングの指輪』みたいで、ギュッと凝縮したような作品なので、これは純粋に聴いて素晴らしいし、面白い作品だと思うんですけど、それをちょっと違った形にしてしまっているんで、作曲された歴史的背景と、戦時中ずっとプロパガンダに利用されて、戦後は逆にまったく評価されない…。ここにきてちょっと政治的に、っていうのがあっての再評価は嫌だなと思います。
T 僕は『海道東征』という作品は知らないんです。知らないんですが、中山悌一(なかやま ていいち 1920-2009)先生が兵隊に召集されて満州におられた時に、東京音楽学校が慰問で訪れて、『海道東征』を演奏した。それを会場の暗い片隅でお聴きになって、涙がこぼれたと言うお話をされたのが記憶に残っています。その時「信時先生の作品で人を泣かす事もあるのか」と失礼ながら思ったりして。信時先生は私たちにとって『海ゆかば』と、優しいおじさま先生だったので、『海道東征』というものを全く知らないんですよね。
N そのコンサートではアンコールに『海ゆかば』をセットでやるんですよ。しかも会場中が歌うんです。
T そうですか、『海ゆかば』を。僕は純粋に音楽作品として見ればテキスト抜きにいいと思うし、あのテキストがあって変な解説しなきゃ別にいいじゃないって言う話なんだけど、難しいですね。芸術作品にそうやって後から色がついちゃうのって難しい。
N 私も実は『海道東征』について昔から調べていて、2015年が信時潔の没後50年の年なので、私が大阪交響楽団の楽団長・インテンダントに就任が決まった時にやろうと思ったんです。しかしその当時は前の音楽監督がいらっしゃって、考え方が合わなかったんでやらなかったんですが、しかしその年にそういう背景でやられちゃったもんだから、私としては汚されたみたいな感じになっちゃってて、この流れが一段落してからうちの主催公演で純粋な形でやりたいと思っているんです。
T そういうことができればね。
N 先ほど外山さんからご指摘のあったローゼンシュトック、それからちょっと違う角度から、マンフレート・グルリット(1890-1972)とクラウス・プリングスハイム(1883-1972)、この辺りの、今となっては日本のオーケストラ界の大きな歴史の一部分だと思うんですけど、全く過去の忘れ去られちゃった人になってるんで、ここら辺の再評価をしたいなぁと…。
T そうですね。今の日本のオーケストラがあるのは、ローゼンシュトック、グルリット、それにガエタノ・コメリ(1894-1977)、そういう人たちのことを、例えば僕の世代ですらすでにヨーロッパから来た指揮者たちに世話になったのは戦前だと思いがち、そんなことないですから。
N ローゼンシュトックはもう戦前から戦中にかけてずっとN響を振っていたし。
T そうですね。それと本当に日本を好きで、本当に日本に感謝していてと言う人でしたから、ローゼンシュトックもグルリットも。すごいと思いますよ。逆さまに言えばナチスのおかげですから。日本は本当は手に入らないような幸せを手に入れた。
N そうですね。
T 日本なんかにいるわけない人たちですから。クロイツァーさんやレオ・シロタさんもそうですよね。シロタさんについて僕はあんまり知らないんで。演奏を聴いたことはあるけど…。クロイツァー先生やグルリットさんやコメリ…。例えばコメリさんの場合、そばには有能な若手のオペラ指揮者がいなかったことですね。そんなこと言うと、いや俺がいたって言う方が何人かいらっしゃると思うけど、受け継いでないです。私とほぼ同年代でオペラに精通していたのは福永陽一郎(ふくなが よういちろう 1926-1990)、これはすごかったですね。オペラに精通してるってことがわかる指揮者として。彼はどっか弱くて、僕は彼を尊敬してるし、尊重してるんだけど…。なんだったんだろう。物知りイコール演奏者ではないってことかな?
N 学者みたいな…。
T 学者っていうか、それと基本的には健康上に問題があったからかも知れません。福永陽一郎と同世代、誰だろう。案外いないか指揮者は。とても都合よくひょいひょいと使われていた指揮者が何人かいるはずなんだけど、思い出さないなぁ。まぁあいつに任せときゃやっといてくれるからって言う副指揮者たちが何人かいたはずなんですけどね。
N このところ毎年8月にびわ湖ホールが、芸術監督の沼尻竜典さんが講師になってオペラ指揮者セミナーっていうのをやってまして、それのピットに入るオーケストラを担当するのがウチなんです。2日間ウチのオケを使って、若い指揮者とオペラの指揮の研修をするわけなんですが、残念ながらこれだけオペラが日常的にやられるようになって、沼尻さんよりもうちょっと前の時代なんかだと、オペラってなかなか日常的になかったように思うんですが、今の若手指揮者たちは、飛躍的にその公演がある状態にもかかわらず、オペラのことを全く知らないで、譜面ヅラだけで…。
T 勉強したつもりになっちゃって。
N そんな感じですね。
T ヨーロッパの先生たちに言われるのは、「お前知ってるか、オペラハウスに15(歳)とか16で入ってくる。それで何をするってことではなくて、周りをいろいろ見て、それが全部勉強で、そのうちに稽古ピアノを弾かせてもらえるかもらえないか。稽古ピアノ弾かせてもらえたら幸運だ。で稽古ピアノ弾いているうちに、『あーこういう時にはこうするんだ、こういう時はこんなこと言っちゃいけないんだ』とかいろいろ身に付けて、それからちょっと指揮させてもらえるところを通らないとオペラの指揮なんて出来ないんだ。」と、しょっちゅう言われましたけれども、日本ではそんなこと言わないもんね。言わないし知らないんだ。それこそ今は新国立劇場もあるし、研修所もあるし、いろいろあるんだけど、基本的に知ってる人はあまりたくさんはいらっしゃらない。それこそ飯守泰次郎さんはご自分で長い経験をしてらっしゃるんだけれども、ああゆう方だからそんなに言わないんじゃないかと思うとちょっと残念。他の指揮者たちはほとんど知らない。オペラの世界を、と僕は思ってるんですけれども。だって稽古ピアノから弾いてないと判る訳ないんですよ。いきなりスコア見て「あー、判った!」なんてありえないです。
N 普通のコンサートを指揮するのと全く違う世界なんですよね。
T そう、全く違う。
N それをもっとかじって来て欲しいよね。っていうのが正直な感じで…。
T だからあれもこれも気をつけないとオペラって振れない。まずね、最初から言うと、「マエストロどうぞ」って言われてオケピットに入っていく、指揮台に立つ。いつ振り始めていいのかどうかは、自分では判断できないわけですからね。今日はどこから合図が来るのかって言うのを前もって知ってないといけないし、その合図が来たらすぐ始めていいのか、それともそれから15秒後なのか、それから3分ぐらい我慢するのか、というのはその場その場で違うわけだから、てなことを口では言えないですもんね、経験してもらわないと。その難しさをわかってない若者が多いのはとても残念ですね。
N 学べる環境が一応20年前、あるいは30年前から比べると飛躍的に多くあるのに。
T そうです。
N 学んでないっていうのがちょっと残念だなぁ、っと…。
T それは誰の責任かな。だってオペラ研修所とかね、新国立劇場何とかコースとかあるんでしょ、そこでやってくれてないのかな?
N 研修所はどっちかっていうと歌手のためにあるみたいで、あんまり指揮者には無いのかなと…。
T 仮にね、仮に非常に大雑把に言えば、飯守さんであるとか、沼尻さんであるとか、少なくとも日本でオペラを経験してる指揮者たちがいて、「それは違うでしょ、そういうことじゃ駄目だよ」と言うチャンスをもっといっぱい作れないと才能ある若手は出て来れないんじゃないかと思いますがね。
N それともいっその事、外国行って外国の劇場に入っちゃうとか。
T 若い時にね。
N まぁそういった意味では、現在は日本を中心に活動してますけれども園田隆一郎さんなんかはイタリアでずっと研鑽を積まれてますし、ドイツでもいくつかの劇場でカペルマイスターをやってらっしゃる若い日本人の方が何人かいらっしゃいますけど、そういう方が10年、15年経って日本に帰ってきてもらえるようになれば、まぁ少しは成長するのかなっていうような気はします。
T そうだよね。指揮者がいないという事は、オペラ公演の中心人物がいないってことですからね。
 
 
「プログラム・マガジン」2018年度4・5・6月号掲載 
 
 
 
 
 
   
「音楽の風景(5)」 ~外山雄三が見た日本の音楽界~
日本音楽界の重鎮であり、わが大阪交響楽団のミュ-ジック・アドバイザ-としてまさに「現役」真っ只中の外山雄三さん。その外山さんの音楽人生を、自らの言葉で語っていただく連載シリ-ズの第5回。今回は外山さんがN響に入団した頃の話です。【 聞き手:二宮光由(楽団長・インテンダント)】
 
二宮(以下、N) N響では最初は打楽器で…。
外山(以下、T) 研究員。じゃない練習員です。
N それは何年ですか?
T えーとね、1951年か52年か…。1952年ですね。
N 昭和27年ですね。N響に入られてからのお話をちょっとお伺いできますか?
T N響に入った時は打楽器練習員という資格というか、それは有馬大五郎先生が、「作曲家になるからにはオーケストラの曲を書くだろう。そうするとオーケストラを知っていなければ書けない。あんたはヴァイオリンで入るとか、フルートで入るとか言ったってできないだろう。打楽器は副科で東京音楽学校でやっていたそうだから、打楽器で練習員っていう形になれるかどうか、当時の首席ティンパニ奏者だった小森宗太郎(こもり そうたろう 1900-1975)先生のところにレッスンしていただきに行きなさい。」と仰っていただきました。小森先生は有馬先生から「こいつを作曲家としてオーケストラ曲が書けるようにする。そのためにはオーケストラをよく知らなければいけないから、打楽器のところに置いてやってくれ!」と仰られたんだと思います。
打楽器の先輩たち、要するに皆さん日本交響楽団時代からの大先輩でらして、大ベテランですから「なんか変なの入ってきたゾ!」とお思いになったんでしょうね。何故かと言うと、例えば作曲家の小倉朗(おぐら ろう 1916-1990)さんがN響の打楽器にちょっと席を置いたことがおありになって、こいつも東京音楽学校作曲科だそうだから、腰掛けでちょこっとN響で太鼓叩いて、それで世の中に出て行って、作曲家だって言うつもりだろうとお思いになったとしても不思議では無い。そしてもう一つ別の要素は、相当長いキャリアをお持ちの方々は、ローゼンシュトックの厳しい練習というか、しごきに耐えてらして、だからこんな素人の少年が入ってきたって何の役にも立たないとお思いになってらっしゃる。そういうところにいきなり放り込まれました。当時の打楽器陣は小森先生を除くと網代景介(あじろ けいすけ 1910~没年不明)さん、小林美隆(こばやし よしたか 1923-2011)さん、小宅勇輔(おやけ ゆうすけ 1924-1968)さん、池田好道(いけだ よしみち1917~没年不明)さんの4人いらしたのかな、そこに僕が入って、入ってってと言うか、そのーなんとなく押し込んでいただいて、そうするとこれやってご覧なさいっていう形で出番があるのは、ラヴェルとかストラヴィンスキーとか打楽器をたくさん使う作品の場合であって、時々チーンとか鳴らしてればいいトライアングルとか、全曲で2発しかないシンバルとか、そういうのをやらせていただきました。
N 外山さんの入られた頃のN響の常任指揮者は誰でしたか?
T あの時は誰だろうなぁ。(ニクラウス・エッシュバッハー1917-1995)かなぁ。違うなぁ。エッシュバッハーの直前でしょう。それじゃ、クルト・ヴェス(1914-1987)かな。
N そうですね。
T クルト・ヴェスさんは東京芸大で指揮科ってのがあったのかな?あるいは指揮科が出来る時にはいらしていて、私たちの頃は指揮科がなかったので「指揮の講習があります、受けたい人は申し出なさい」って言うんで、申し出たのは私と大町陽一郎(おおまち よういちろう 1931-)と誰だろう、なんか4、5人で週に1回レッスンに行ったんですね。ピアノでのレッスンでした。クルト・ヴェスさんて方のそもそもキャラクターとして、地道に人に教えたりする人じゃなかったので、なんかとてもフリーに楽しくやらせてもらって、それをやったおかげで学校のオーケストラを時々振らしてもらった。1回音楽会やったかな?その時に私はなぜかベートーヴェンの交響曲第5番の第4楽章をやった。それがオーケストラというものを指揮する最初でした。その頃の東京音楽学校のオーケストラっていうのは、各セクションのトップが全部先生方でらして、で先生方って言うと聞こえはいいですが、オーケストラなんて経験したことない偉い偉い先生もいらして、その偉い先生がコンサートマスターだったりするので、今考えればね、難しいところもあったのかなぁとも思いますけど、当時はそんなこと知りませんから、何しろ初めてオーケストラの前に立って棒振るわけですから。私がオーケストラというものを初めて振ったのはベートーヴェンの交響曲第5番の第4楽章だったんです。
N ヴェスの後がエッシュバッハーだったんですね。
T そうです。エッシュバッハーってのはやたらに耳の良い人で、スイス人らしく「NHKの時報が『ポッポッポッポーン』ていうAの音が440のつもりらしいが、あれは440じゃないよ」、なんてことを言うような、いかにもスイス人らしい。とてもすんなりとそういうことを言う人でした。
エッシュバッハーとの思い出で今でも記憶に残っているのは、ある時、スメタナのオペラ『売られた花嫁』をN響がやりました。ほかに劇場がない頃で、日比谷公会堂の狭いオーケストラピットでした。その『売られた花嫁』をやるって決まった時に、当時のNHKもN響も『売られた花嫁』が貸し譜で存在する、あるいは貸し譜であることを知らなくて、オーケストラのパート譜全部が手書きの楽譜だったんです。そしたらエッシュバッハーはスイス人らしく細かいことが気になる人でしたから、パート譜を全部チェックするって言い出して、ふーん、チェックするのかって他人事のように思っていたら、「お前も手伝え!」ってことになって、どうやったかって言うと、オーケストラの練習場を片付けて、床に全部パート譜を開いて、それを片っ端からチェックして歩く、っていうのをやりました。だから今考えれば勉強になったと言えば勉強になりました。なるほどこうやらないとダメなんだ、大変なことなんだ、ということを判らせてもらいました。床を這いずり回って楽譜直したりとか、忘れがたいです。いや、辛かったとか嫌だとかってことじゃなくて、そんなことしたことなかったから。だからオペラの全曲じゃなくて、短い曲で楽譜が気になる時、今でも僕は若い指揮者たちに「この楽譜チェックしようよ、一緒にやるから」って言う方です。指揮者ならきっとそれはためになると思います。楽譜そのものが違ってたら練習に手間がかかるだけであってとんでもないですから。そういう経験をしました。
N でその次がローゼンシュトック?
T あぁ、そうかもしれませんね。ローゼンシュトックというのは皆さんよくご存知の通り、戦前の日本交響楽団、後のN響を育てあげ、鍛え上げた人です。ということは、シンフォニーオーケストラというものがいかにあるべきか、どのようなレベルがなければならないのか、なんてことを誰も知らない当時の日本にやって来た、大変に能力のある指揮者でした。多分彼は世界的に能力のある指揮者だったと思います。彼は簡単に言えばナチスから遠く離れた日本に喜んでやって来たんだと私は勝手に思ってるんですけども、本当のところは解りません。ナチスから逃れてくるのに日本はちょうど良いとこにあったのかな、それはN響にとっても幸運だったと思うんですけれども。彼は日本にやって来て、まず楽譜をきちんと整理する。それから基本的に楽譜通りに演奏するということをオーケストラに叩き込んだ。それと彼が心から尊敬し崇拝していたトスカニーニに倣って厳しい練習をする。技術的にもまだそこまで届いていない音楽家たちもいたかも知れない当時のN響を育てあげた。本当に育ての親だと思います。もちろんそれまでにN響は色々な方にお世話になっています。山田耕筰先生から始まって、近衞
先生もそうですし、他の外国の指揮者たちもずいぶんN響に手をかけてくれたんだと思いますが、徹底的に、基本的にオーケストラとしての基礎的な能力を身につけさせてくれたのは、ローゼンシュトックの功績が非常に大きいと思います。ローゼンシュトックだけの功績ではないと勿論思いますけれども、とても大きいと思います。ですから情け容赦なく厳しい練習をしたらしくて、練習の帰りにどっか行って自殺しようと思ったっていう方が何人もいらしたようですね。にもかかわらずみんなが付いて行ったというのは、彼の能力の高さでしょう、きっと。能力の高さ、確かさ、それから知識の豊富さ、経験もでしょうね、きっと。日本人がそれまで知らなかった指揮者というものは、基本はオペラ指揮者として教育を受け、経験を積んで、その中から選ばれた人がシンフォニーオーケストラの指揮者になる。今だに日本人はそこまではっきり自覚してないかも知れません。でも私は、自分がちゃんとそこまで出来ていなかったから残念ですが、オペラというものを知らないで「俺はシンフォニー指揮者だから」、なんて言ってるのは日本だけかな?恥ずかしいなと思います。オペラをやるってことはあらゆることに気を配る、神経を使う、あらゆることを読み取る、見抜く、それこそ指揮に必要なすべての要素がオペラを指揮するっていうことに集約されているわけだから、ヨーロッパで若い指揮者がいきなり何の経験もないのにオペラハウスに放り込まれて、それこそさっきから話してるように15、16で放り込まれて厳しい先輩指揮者たちに教育される、あるいは意地の悪い同僚たちや、めちゃくちゃ意地の悪い先輩たちに揉まれて、揉まれて、揉まれて、揉まれて生き残って行く…。それが指揮という職業に必要なんだなと思うことはあります。みんなにそうしろなんて言う資格は僕にはありません。が「なるほど、そういうことが必要な時があるよな、指揮って言う仕事は」と時々思います。だから凄いですよ、ヨーロッパの指揮者たちは。アメリカを嫌いなわけでも、けなすわけでもありませんが、昔からのオペラの伝統はなかった国、アメリカっていうのが、時々ちらつくと思うことがあります。だから私はバーンスタインが好きですけれども、彼にもし弱点があるとしたらそういう部分なのかなぁ、弱点なんかないんでしょうけどね。そう思います。
N 次がロイブナーですかね。
T ウィルヘルム・ロイブナー(1909-1971)さんは、それこそヨーロッパの指揮者の典型というか、優等生というか、15か16の時にウィーンのシュターツオーパー(国立歌劇場)に入って、名称は知りませんけど、実質は練習ピアノから弾く。練習ピアノから弾くということは、ひょっとするとまずは副指揮者の練習の初めから付き合う。あるいは副指揮者の練習の前に、歌い手がちゃんとすらすら歌えるようにする。私はロイブナー先生のレッスンを受けましたので、先生から直接教えていただきましたけど、最初は歌い手は、楽譜をぱっと見て音が取れないこともある。先生は紳士だったのでそう仰いましたけど、「音取れねぇ奴が多いよ!」と仰りたかったのかも知れない。それをその歌い手を傷つけたりしないようにそーっと歌えるようにする、それが副指揮者の最初の仕事である。具体的に言うとどういうことかと言うと、こんなことをお話ししても何も役に立たないかも知れないんだけど、最初は伴奏を弾いているふりして歌の旋律も一緒にピアノで弾くんだけど、そのうちに歌い手が歌えるようになったら、少し伴奏の音を増やす。もう少ししたらもうちょっと伴奏の音を増やす。最後は書いてある音を全部弾いて歌わせる。それがオペラの練習する副指揮者の仕事だという風に、ほんとに懇切丁寧に教えていただきました。今皆さん能力が高くなってるから、そんなこと必要ないよと仰るかもしれませんが、もし僕がこれからまたオペラを指揮するとしたら、副指揮者達に「ちょっとそうやってよ、時間が短くてもいいから、そういう風に歌い手さん達と練習してみてよ!」って要求するだろうと思います。ロイブナー先生の教えは、その歌い手が出て行って、自分たちの手を離れて、オーケストラに行くでしょ、そしたら違う音が、違う聞こえ方がするでしょう。そうするとまたあなたたちの所に戻ってくるかも知れない、そしたら嫌がらずにまたちゃんと練習してあげて下さい。という風に、ロイブナー先生という個人が非常に優しい方でいらしたからということだけじゃなくて、オペラを作っていくということの基本がそういうことなのだと教えていただきました。指揮者は、例えば練習ピアノを弾くところから始めるっていうのはいいが、言葉は知らないっていうのでは違いますよ。言葉をちゃんと歌い手達より先に勉強しておきなさい。発音が解らなかったら、その発音が出来る人のところに行って教えていただいて来なさい。そうでないとオペラにはなりません。例えばウィーンで言うと、ドイツ語とイタリア語はオペラの街だからそこそこ出来るでしょう。フランス語はどうしますか。「カルメン」、フランス語でしょう、どうしたらいいと思いますか。それはちゃんとフランス語が出来る、オーストリア人じゃなくてフランス人の発音で習いなさい。そうじゃないと最初が間違えると、あと訂正するのが大変です。ですから日本人なんて大変ですよね。日本語以外何にも知らないんだから、ホントは。知ったふりして発音してますが、だからオペラを、しかも日本語訳ではないものを指揮するときに、日本人は特に気をつけねばならないと僕は個人的には思っています。
N ロイブナーさんの奥さんは?
T はい、ルティルデ・ベッシュ(1918-2012)夫人。
N 彼女とは何度もリサイタルで共演なさっていらっしゃいますね。
T はい、120回以上やりました。あの人はウィーンのシュターツオーパーのメンバーでしたけど、本当にウィーンの音楽もそうだし、オペラもそうですし、その中で生まれ育ったみたいな人でした。でもそんなに大きくない人でしたから、日本人がヨーロッパ人の歌い手と思って想像するような、人をびっくりさせるような大きな声とか、ドラマティックな表現ってことでは無いんですが、ドイツ語ではスーブレットって言うんですけれども、『フィガロの結婚』のスザンナとかそういう役柄にぴったりの声の色、声量、それから表現の仕方ができる人です。僕はベッシュ夫人と120回以上演奏会をさせていただいたってことは大きな財産です。それについてはベッシュ夫人のご主人であるロイブナー先生、それからいろんなことを全部見ておられた有馬大五郎先生が「外山でいいよ、それは外山にやらせろ」と仰ってくださったんだと思いますが、そのお二人にとても感謝しています。だからロイブナー先生のお宅に行って数回レッスンしていただきました。伴奏を弾いてベッシュ夫人に歌っていただいて、とてもありがたかったです。そうじゃないと僕が今弾くようなウィンナワルツ弾けないでしょ。
N 実は私も晩年のベッシュ夫人に一度だけお会いしたことがあるんです。
T あっ、そうですか。
N その当時にベッシュ夫人に習ってた声楽の学生が知り合いでして…。
T ああそうですか。男性ですか。
N いや、女性なんですけども。ベッシュ夫人の1番有名な弟子がエディタ・グルベローヴァなんですが、私はグルベローヴァの大ファンなので…。
T あーそうですか。
N グルベローヴァとのエピソードなんかを聞けたらいいなと思いまして、お話を伺いたいなと思って、そのお弟子さんを通じてお願いしたら、「ぜひどうぞ」ということでお伺いしたんです。
T おー、でどこ?ウィーン?じゃ、お宅まで行ったの?
N はい、レッスン室に日本のいろんな物、小物が置いてあって…。
T 石灯籠もあったりして…。
N はいはい。ほんとに日本びいきな人でしたね。亡くなって残念なんですけれども。
 
 
「プログラム・マガジン」2018年度7・8月号掲載
 
   
「音楽の風景(6)」 ~外山雄三が見た日本の音楽界~
日本音楽界の重鎮であり、わが大阪交響楽団のミュ-ジック・アドバイザ-としてまさに「現役」真っ只中の外山雄三さん。その外山さんの音楽人生を、自らの言葉で語っていただく連載シリ-ズの第6回。今回は前回の続きと、ウィーン留学の話です。【聞き手:二宮光由(楽団長・インテンダント)】
 
二宮(以下、N) ロイブナーの後はウィルヘルム・シュヒタ-なんですけど、シュヒタ-とは直接は関わりはありましたか?
外山(以下、T) ありました。ウィルヘルム・シュヒター(1911-1974)さんは、全部自分の思い通りにならないと承知しない。ですから、僕が確か大阪フィルと大阪で演奏会をしているのを知っていながら、「今日の練習に外山がいなかったら俺はこの音楽会をやらない。」なんて言って、僕は大阪フィルの練習をキャンセルして東京に帰ってN響の練習に出る。何か用があるわけではないんですよ。翌日、大阪に帰るつもりでいたら「明日の演奏会は外山がいなかったら俺はやらない。」てなことを言う、僕の感覚として言えば、嫌な奴。簡単に言えばね。でも能力あったんだと思います。あの(ヘルベルト・フォン・)カラヤン(1908-1989)が副指揮者としてシュヒターを非常に重用して、N響に推薦したわけですからね。能力はあったんでしょう。それとシュヒターがN響の定期を指揮するその時に必ず僕に練習に来いって言うんです。練習に来いって言うだけなんですが、朝行くと「俺は弦楽器を練習するから、お前は管楽器を練習しろ」って。別の部屋で僕が管楽器を練習していると、途中でコンコンって来て「お前、管楽器の練習しろって言ったけど、木管と金管と一緒にやってるだろ、別々にしろ!」そんな部屋もあるわけないし、僕がひとりだから出来る訳ないんだけど、それで何時何分までにやれとか、要するに自分がいかに偉いかを常に確認したかったんじゃないですか。N響の人たちもだんだんそれが判ってきて、大変だなぁみたいな空気の中で仕事させてもらえましたけど。そういう人でした。能力はあったんじゃないかと思います。それと1960年のN響の最初の世界旅行の時に、要するに日本のオーケストラがヨーロッパにわざわざ出かけて行くんだから、ヨーロッパ人の指揮者じゃなくて日本人の指揮者でって言うこともあっただろうと思いますし、有馬大五郎先生が、「岩城宏之と外山雄三を指揮者として連れて行く」とお決めになったこともあって、彼の出番があんまりなかったので非常に機嫌が悪くて、ということもありました。有馬先生のお考えは、いろんな意味で当然だったと思いますけどね。日本のオーケストラでもやっぱりドイツ人じゃなきゃ指揮はダメなのかと思われちゃとんでもないですけどね。いくら1960年だって、ということがありました。だからシュヒターさんという人の能力、音を聞き分ける能力、あるいはいろいろ楽譜上で読み取ったことをオーケストラの上で整理する能力、それはすごいと思いますが、でも指揮者として凄かったんですかと聞かれたら、うーんと黙ります。だからドイツのオーケストラは、ラジオで放送することが主な仕事だった時代があります、超一流を除いて。ということはどういうことかって言うと、ミスが許されない、決してミスしない。録音は何回でも録り直すということをN響に経験させてくれたのはシュヒターです。N響の現在の練習場には2階に録音室があります。練習の初日の初めから全部録音しました。それは何のためかっていうと、シュヒターさんがそれを全部毎日聞いて、「あそことあそことあそこは具合が悪い、録り直しをやるぞ」ってなことだったんです。シュヒターさんはもちろん耳のいい人でしたけど、その上録音もチェックしてという厳密さなんでしょうね。
N そのN響に入られてから留学なさるまでの間、何人かの世界的な、著名な指揮者が客演で来られましたよね。例えばカラヤンとか。その指揮者に対するエピソードみたいなものありますか?
T 当時N響の練習場は荏原にありましたから、指揮者たちはみんな帝国ホテルに泊まりました。朝、私が帝国ホテルまでN響の車で迎えに行って、荏原まで一緒に車に乗って行く。結構時間がかかりますから、黙ってるわけにもいかないから、なんか少しは話をしたりするんですが、非常に感じが悪くて一言も口聞かなかったなんて人はいません、正直言って。いろいろと聞きたがる人はいました。どういうことかというと、N響の中のことではなくて、どこ行ったら美味いフランス料理が食えるかとかね、面白いナイトクラブはどこだとかね、要するに世間話、雑談です。ものすごく嫌だった指揮者ってあんまりいませんけど。非常に不愉快な記憶に残ってるって人はいません。今考えればそれはね、こんな遠い国へわざわざ呼ばれて来たんだから、そこで不機嫌になってみせることもなかったんだと思いますが。不愉快とは言いませんが、必ずしも愉快とは言えないかなっていう位の感じは常任指揮者としてきたシュヒターで、念のため申し添えますが、シュヒターは非常に能力の高い副指揮者でした。だからカラヤンが彼を信頼していたっていうのは解ります。でも人間として僕は好きにはなりませんでした。良い悪いじゃなくて人間として好きになったというか信頼できたのは、自分が直接教えていただいたせいもあるけどロイブナー先生。それと面白かったのはエルネスト・アンセルメ(1883-1969)。もうとにかく、おしゃべりが止まんないんですよ。もう羽田、当時は国際線も羽田に着いてましたから、羽田に着いてホテルに行くまで、とにかく一方的にわーって喋り続ける。初対面ですよ。しかもこっちが面白がるようなことを話題にするんです。例えば誰とかはどっかで振り間違えたそうだとか、ほんとに面白い人でした。スイスロマンドと一緒に来たのかな?やたらよく喋るのでびっくりしました。
あとは誰だろう、カラヤンもまあ、カラヤンは大したことない話でも、例えば僕に話しかける時も「ちょっと」って、人のいないとこ連れてって、低い声で、それこそ極端に言えば「明日は昼飯なんにしようか?」みたいな。そういう格好にするんです、いかにも重要な話をこいつとしてるぞ、みたいに。だから最初にカラヤンがN響振りに来た時に、N響のメンバーの間ではカラヤンの出演料が非常に高いそうだっていうニュースが前もって流れていたので、「カラヤンは高級ホテルに泊まって1万円札でケツ拭いてるそうだ」とか、それこそ人様には言えないような話が伝わったりしたことがありますけども、N響に来た指揮者で非常に不愉快だったって人はほとんどいないんじゃないかな。みんなそれこそこんな遠くまで呼ばれて来てるから、それぞれのなにか思い入れというか思い方があったんじゃないかなと今になってみると思います。
N ストラヴィンスキーは?
T イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)はね、僕はたまたまウィーンに行っていて、居なかったなぁー。
N あーっ、今となっては残念でしたね。
T そうなんです、ほんとに残念です。でもN響の人たちの話ではね、ロバート・クラフト(1923-2015)と言う助手が一緒に来ていて、練習は全部クラフトがやって、ストラヴィンスキーの指揮は本番だけ。だからクラフトは、ストラヴィンスキーが何をやってもちゃんとできるように仕上げてたようですね。ストラヴィンスキーで言えば、僕がN響入ってオケ中のピアノ弾くってことになった時に、えーって思ったのは、『火の鳥』のオーケストラパート譜で、戦前に、N響が、もちろん貸し譜です、借りてそのまま返さないでずっといたんですよ。それはねN響だけの話じゃなくて、NHKもNHKのライブラリも本当はあるはずのない楽譜が山のようにあって、音楽著作権協会の国際調査が来て、それで全部はじき出して整理したみたいですよ。日本に著作権と言う思想というか感覚がなかったから致し方ないことですね。僕も戦前の出版社の『火の鳥』のパート譜でN響でピアノパート弾きました。それには今思えば前にそのパート譜を弾いた音楽家のサインが3つ4つありましたね。
N クリュイタンスは留学前でしたか?
T アンドレ・クリュイタンス(1905-1967)は後だったかなぁ?でもね僕は日本でのクリュイタンスっていうより、ウィーンでシンフォニカを振ったクリュイタンスが記憶に残ってる。なぜかっていうと、園田(高弘)さんがベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番をお弾きになった。なので、「うーん、クリュイタンスみたいな巨匠と園田さん弾くんだ」と思って。クリュイタンスって意外にドイツ方面で人気ありましたから。
N 外山さんはその後ウィーンに留学されますけれど、留学期間は何年の何月からでしたか。
T 1958年の12月から1960年の5月位じゃないですか。
N じゃあ1年半ぐらいですかね。
T そうですね。
N 60年の5月に、オットー・クレンペラー(1885-1973)がフィルハーモニア管弦楽団とウィーンに客演してるんですよね。
T うん、観ました。
N ベートーヴェンだった。
T そうです、ベートーヴェン・ツィクルス。僕が聴いたのはベートーヴェンの3番だったと思いますが、とっても印象に残っているのは、お客様が圧倒的に年配の方たちだった。おじいさん、おばあさんばっかりで、あのウィーン風の、男性が女性の手を取ってキスするでしょ、みんなかっこだけやってる。それがおかしくてね、記憶に残りました。クレンペラーはその後もう一回聴いてるのかな?でもそれはポディウムジッツ、つまりステージ上の席で観たんですが、もう半身不随でしたから鬼気迫るという感じでした。
N ウィーンのオペラハウス、国立歌劇場はそのころカラヤンが芸術監督でしたが、なにか印象に残った公演とかありますか?
T ワーグナーをカラヤンがまとめてやろうと思っていた時期で、演出も美術もカラヤンが自分でやったという時代でした。それはどこまで前の人と違うのか僕は前をちゃんと観てないから知りませんが、ともかく自分の意思でというか、自分のカラーで統一しようという元気なカラヤンですから、それはそれで僕はとても面白い。面白く、楽しく、ワーグナーというものに接しました。『トリスタンとイゾルデ』はハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)で観たのかな?印象に残ってるんですが、他は『ワルキューレ』とかそういうものはカラヤンで観ました。カラヤンはなんか古いもんばっかりやってちゃいけないんで、新しい現代オペラをやらなきゃみたいな、そういうことも時々ありましたけれど、でもやっぱりワーグナーだったり、ベートーヴェンだったり、モーツァルトだったりするのは、良い上演になっていたと思います。僕は個人的にはクナッパーツブッシュが夏のミュンヘンでやった『トリスタンとイゾルデ』が印象に残っていて、ウィーンのシュターツオーパー(国立歌劇場)だとご存知のように身を乗り出さないと指揮者が見えないじゃないですか、当時のミュンヘンはまだプリンツレゲンテン劇場だったので、指揮者がよく見えるのでとても面白かった記憶があります。
N マックス・ヨーゼフ広場にある現在の劇場(ナツィオナール・テアター)は1963年に完成ですからね。
T ああそうですか。
N なので、外山さんの留学時代はまだプリンツレゲンテン劇場だったというわけですね。
T そうなんですよ。新しい劇場はいいですか?
N ほぼ昔と同じような馬蹄形でして…。
T あっそう。
N ただ上の階は桟敷席じゃなくて何列かになってますが…。
T まぁその方が合理的だよね。
N ですから今はもうほとんどの上演がその劇場でやっていて、プリンツレゲンテン劇場では年に数本ぐらいになってます。
T それは懐かしいから行きたいって言う人もいるだろうしね。
N それにプリンツレゲンテン劇場は1000席ほどなんですね。ナツィオナール・テアターは2100席ほどありますから、経済原理で行くと…、ですよね。それでも夏の音楽祭は新しい劇場が完成してからもしばらくはプリンツレゲンテン劇場でやってた時代があったみたいですが、今は1~2本のオペラがあるだけになっています。
T そうでしょうね。
N 装置を動かすだけでも大変ですから。1960年の6月に留学を終えて帰国されますけど、これは船で行かれたんですか?
T いえいえ飛行機です。もちろん。外国へ船で行ったことはないです。
N 行きも帰りも。
T はい。
N 当時何回位給油のためにストップするんですか?
T えーとね、僕が1958年12月にウィーンに行く時は北極を通過するというのが話題になるような時でした。だから北極の上を飛んだんですね。で『この便は北極の上を飛びました』っていう書状みたいなのを全員にくれました。そういう時代でした。航空会社はSAS(スカンジナヴィア航空)です。JALなんか飛んでなかったのかな。
N アンカレッジで経由ですか?
T そうです、そうです。アンカレッジからどっか、オランダのどっかだったんじゃないかな。それでウィーンに行ったのかな?忘れました。
N 帰りも同じようなルートで?
T そうでしょうね。
N 20時間以上。
T かかりますね。行きの飛行機の時に乗り合わした日本人で記憶に残ってるのは、ひよこの雄雌を選り分けられる職人さん達4、5人が一緒で、その方々は「自分たちはひよこの雄雌を選り分けるために行くんだ」って仰っていました。どこ行ったのかな?オランダだったのかな…。
 
 
次号の【音楽の風景】は、お休みにいたします。次回は、1960年のN響世界一周演奏旅行の話からスタートいたします。
 
 
「プログラム・マガジン」2018年度9・10月号掲載 
 
 
 
 
 
   
「音楽の風景(7)」 ~外山雄三が見た日本の音楽界~
日本音楽界の重鎮であり、わが大阪交響楽団のミュ-ジック・アドバイザ-としてまさに「現役」真っ只中の外山雄三さん。その外山さんの音楽人生を、自らの言葉で語っていただく連載シリ-ズの第7回。今回は名曲「ラプソディ−」誕生秘話です。 【聞き手:二宮光由(楽団長・インテンダント)】

二宮(以下、N) 外山さんの名曲のひとつ、「ラプソディー」誕生についてお話しいただけますか?
外山(以下、T) (ウィーンから)1960年の6月4日に日本に帰ってきました。その時まで正式にはN響が外国旅行に出るってことは全く私は知らないでいて…。
N 帰ってくるまで知らなかった?
T もちろん。1960年の6月に帰ってくる時、はっきりと8月の終わりから世界旅行に出ることを聞いてなかったっていうか、NHKも発表してなかったので、「なんで2年の約束なのに、こんな早く帰って来なきゃなんないの」って僕は不満タラタラで実は帰ってきたんですが、帰ってきて、6月の終わりぐらいになって有馬先生から外国に演奏旅行に出る、アンコール曲を何か書けないかって。1960年2月に有馬先生がウィーンにいらした時にさりげなく日本民謡集をくだすって。お見せしましたっけ?
N いえ、まだ見たことが…。
T (書棚から取り出してきて)初めからボロボロだったんですね。こんなに書き込みがあるんですよ、有馬先生ご自身の書き込みなんですけどね。
N これ撮影していいですか?
T はい、どうぞ。お渡しになった時にはね、こういうものが書いてあるって仰らないんですよ、先生は。なので、後でこりゃなんじゃっていう話。
N これすべて有馬さん自身の書き込みですか?
T もちろんもちろん。そういう書き込みは全部先生です。その上になんかいろいろ書いてあるのは、教会調との関係がある、そのナントカとかその調性との関係はどうだとかっていうようなことを、僕はまだ全部読みきれてないんですけど。でも全部先生の書き込みです。
これをね、先生が1960年の2月にウィーンにいらして、その頃60年に世界旅行があるんだってことは私たちは全然知らされてないです。これをさりげなく下さったんです。頂いて帰って、6月に日本に帰ってきたら、「実は世界旅行に出る。何かアンコール書きなはれ。ウィーンで渡したものがあるやろ」って。そんなこと言われたってみたいな、そういう話で8月29日に出発する旅行だったんですが、7月の終わりになって、N響のサマーコンサートが千駄ヶ谷の東京都体育館で、指揮は岩城宏之(いわき ひろゆき 1932-2006)であって、それで初演するから何か書けと仰って。あっという間ですよね。
N そうですね。1ヵ月ないですからね。
T 有馬先生から何かを書けと言われた時に思い出したのは、ウィーンに客演してくる外国のオーケストラが、その本プロはそんなに感心しないのに、アンコールのお国ものが皆凄いんですよね。「わー、こんなことできるオーケストラだったのに何してんの」みたいな。それは田舎のって言ったら変ですけど、ドイツじゃないオーケストラがそういう風になったっていうだけじゃなくて、ゲヴァントハウスが来て音楽会やって、まぁそれはそれでね「ふーん、がっちりしたもんだな」と思ったんですけれども、アンコールで『マイスタージンガーの前奏曲』やったんです。そしたら「わーっ」って腰が抜けるみたいなもんだったんですよ。だからアンコールがどんなに大事かっていうのを何回か経験してましたので、なんとかしなきゃっていう。ともかくね、最初はどうでもいいけど、最後は「わぁー」と盛り上がってお客様が拍手をしてくれるようにしないと、俺たち東洋人がわざわざヨーロッパに出かけて行くのにもったいない…みたいなことも考えたかも知れません。もう忘れちゃいました。ともかく有馬先生が「なんとかしなはれ!」と、「あんた知っとるやろ、ウィーンに外国の田舎のオーケストラが来る。演奏は大したことないが、アンコールだけはすごいやろ」と仰る。そこまでです、お話は。
N で、渡したものがあるやろ、と…。
T だから2月にウィーンで先生にこれを頂いた時の記憶は、頂いたってのは、なんかとても大層なものだと思って頂いたのですが、ろくなもん食ってないだろうと思って下すったのかどうか分からないけど、何回か食事に誘って下さったんですね。先生はそれこそN響の演奏旅行の下準備に行ってらっしゃるから大変だったに違いないんだけど、それは僕らには全然わからなくて…。
N その時は今のバージョンよりも長かったそうで…。
T そうですそうです。長いって言ったってね、大したことないですけど。N響の練習場で練習する時までは長かったんですけどね、それを岩城は非常に敏感な音楽家でしたから、「ここはいらねーんじゃねーか?」みたいなことを岩城と僕の間柄ですから言って、「この曲、長げぇよ」と、「切ろうぜ」と言って、「じゃぁ、ここからここまで切るか」って言うのでバサッと切ったんです。途中に何かを書き足したわけじゃなくて単にバサッと切っただけだと思います。
N その時、外山さんは抵抗することはなかったんですか?
T うーん…。1回くらいN響で練習したかもしれないけど、でもそれっきりです。
N ということは作曲した長いバージョンは演奏されず仕舞いに?
T そうです。長いバージョンで最初に作曲したものが音になったことは1度もなくて…。だから晩年の岩城は「あの、ほらさぁ、あの時俺が切った『ラプソディー』、N響のライブラリにあるはずだから、探し出して、あれやってみようよ!」って時々言ってました。
N それがもう楽譜はない?
T N響にはあるはずなんですけど、N響のライブラリっていうのはしょっちゅう変わるんで、今の人たちに聞いてみると、「そんなもんありません」って。
N 散逸している状態だと…。
T そうです。
N でも、もしかしたらN響のライブラリにあるかも知れない?
T あると思います。N響も「探してみます」って言ってくれるんですけど、それは日々膨大な仕事をしてますから、そんなに責め立てるわけにも行かずということです。
N それじゃあ、『ラプソディー』のオリジナルは今でもN響のライブラリに眠っている可能性がある…?
T どうかなぁ…、N響のライブラリっていうのはご存知の通り昔は武内輝二(たけうち てるじ 生没年不明)さんと、会 則道(かい のりみち 生没年不明)さんかな、二人の、ともかくN響のライブラリと言ったらあの二人の怖い顔が思い浮かぶような方がいらしたんだけど、それからいろいろ変わりましたんで…。それからご存知のように、1960年から少し年代が経つと、世界中が重要な作品は貸し譜の世界になって、昔のように楽譜係いわゆるライブラリが死力を尽くして、材料を集めて来なきゃなんないってことが無くなっちゃったので、逆にライブラリアンという職業が曖昧なものになった。いや、あの現在の私の立場から言っても、素晴らしいライブラリアンを何人も存じ上げてます。これは日本だけじゃなくてヨーロッパもそうです。ですが、昔のような形ではないなと思うのは、例えばシベリウス、もう今の音楽好きの方たちは歴史上の人物だとお思いだろうが、私のような年代だと、アイツ、ついこの間までベルリンで活躍してたみたいな話なので、そのシベリウスが自分で指揮するために持ち込んだパート譜っていうのが世界に何ヶ所かにある。それ見たいなーとか、使いたいなーと思っても、そんなもの簡単には出てこないという世界ですね、オーケストラのライブラリってのは。ですから前にもお話したことがあるかもしれないけど、N響が戦前ローゼンシュトックの指揮で『火の鳥』をやる時に、ヨーロッパから楽譜を取り寄せたんです。そしたらそれが戦争になってしまったので、返せなかったのか、返さなかったのか解らないのですが、そのままになって、だからヨーロッパのプレーヤーたちが書き込んだ書き込みがいっぱいある楽譜がN響に残ってました。これN響が聞くと困るかもしれないけど。ですから私達は、私や岩城はそのパート譜を使って『火の鳥』をやりました。でもそれは指揮者としては知る由もない、どんなパート譜を使ってるかは。なんだけど、例えば僕はピアノ弾いたから知ってるんですが、何年何月どこそこ誰が弾いたって楽譜の終わりに書いてあるんですよ。その自己顕示欲の強いプレーヤーたちが。でそれをね、返そうと思ったんだけど、戦争で返せなくなったのかもしれない。でそんなレパートリーをやったのは戦前はローゼンシュトック以外にありえないので、ローゼンシュトックが演奏した時のパート譜がそのまま日本に残ったと考えるべきだと思いますけどね。例えば、他にもあるんじゃないですか。割と最近まで問題だったのは、シベリウスのパート譜があって、これがなんかぐちゃぐちゃなんですよ。神経質じゃなかったのかな、あの時代は。日本でとても好まれたシベリウスの2番、どんなパートだったか記憶がないくらい。たぶんね、手書きだったと思う。しかもスコアは現在と違って小型のポケットスコアしかなかった。それをN響のライブラリの方が、非常に丹念にオーケストラパート譜をお作りになった。それをそのままずーっと使い続けていた。それでN響が戦後ヨーロッパへ出かけていくことになって、どこで演奏するってことになって、待てよ、ちょっとまずいぞ、それ見られたら全部没収されるからどうしようかみたいになって、つまりね、戦前の日本は楽譜がそんなに大変な、要するに何かというと、作曲家の著作権が重大な物だっていう認識がなかったんですね。だから貸し譜なんてその頃言ったら「何、それって?」全員がのけ反るというような時代だったんでしょう。ですから当然ローゼンシュトックが次から次へとストラヴィンスキーの作品をやった、『春の祭典』は違いますけど、『火の鳥』も『ペトルーシュカ』も。全部日本側の手書きの写譜です。僕はとてもよく覚えています。あのー、特に『ペトルーシュカ』でピアノを弾いたものですから。すごい綺麗な読みやすい楽譜で、それが半分黄色くなった五線紙にペン書きです、もちろんね。だからそういう楽譜でN響はずっとやってきたんだと思いますし、その続きで考えると、山田一雄(やまだ かずお 1912-1991)先生が『春の祭典』を初演なさった時も…。
N それは戦後?
T もちろん戦後です。あれ全部手書きだったのかな。だって貸し譜って概念がない。借りなきゃいけないけど書いちゃえなんて話じゃない。だから知らないってのは恐ろしい。
N そうですね
T だからそれこそ1952年にN響に入った私としては、あらゆる近代現代曲は手書きの、N響が作成した手書きの楽譜。でそれを先ほどから申し上げてるように武内輝二さんと、会 則道さんという二人の楽譜係がせっせと書いたんですね。二人で。とんでもないですよ、仕事量だけ考えても。しかも口うるさいN響のメンバーが文句言えないように、きちんと綺麗に書いてあるわけです。あれ、今もあるはずだから大事にしないといけない宝物だと思いますが、それが大事だということを解ってる人はもういないかもしれない。だから怖いです。
N 外山さんの『ラプソディ-』も作曲した状態で残っている可能性もある…。
T えー可能性もゼロではないけど、日本の作品ってそんなにしょっちゅうやらないから、楽譜庫の奥に仕舞い込んであるって可能性もある。だから戦前から、例えばどなただろう、深井史郎(ふかい しろう 1907-1959)さんとか、それこそ高田信一(たかた しんいち 1920-1960)さん尾高尚忠さん、山田一雄さんなどの作品のパート譜はN響のライブラリに存在していると思います。誰かが捨てちゃえーって言わない限り。だけど新しいものが増えてますからそろそろ整理しなきゃって怖いこと言ってる人もいますけど。
N N響の高輪の練習場が確か1970年代の初めに出来たのではないかと…。
T えーっといつかな、1960年が最初の世界旅行でしょ、あの時はどっから出てったんだ?高輪じゃなかったな、だから1960年から1970年の間でしょうね。(注:高輪の練習所が完成したのが1962年、それまでは内幸町の旧NHKホール隣のビルにあった)
N それで高輪の練習所が最近になって建て替わったものですから、一旦荷物を全部出して…。
T 出したんでしょうね。だからその時にオーケストラのライブラリというのが、いかに微妙で貴重なものかということを知ってる人が整理したかどうかわからない。これは何を言ってるかっていうと、年に一度尾高賞の選考委員会、私は今年まではともかく尾高賞の選考委員だったので、「昔の日本の作品を出そうよ」と言っても、なかなか出てこない。それはなぜかっていうと当たり前の話で、日常日本の作品をほとんどやりませんから、出し入れしてない。だからそういうことのつなぎで「これいらないんじゃないか?」って誰かがポイってやったらそれっきりですよ。だからとても恐ろしい時代。私のような年代の、日本の作品に興味を持ってる人間としては、尾高尚忠さん、山田一雄さん、高田信一さんという3人のN響の指揮者であり作曲家であった人たちだけではなく、例えば深井史郎さんとか、清瀬保二(きよせ やすじ 1900-1981)さん、その他たくさんいらっしゃる大先輩たちが苦労して書いたオーケストラ曲、時代が時代ですから現在も名作であるということは言えないかもしれない、わかんないけど。そういうものがちゃんとどっかに残っているのか、残っているけどなんかの下積みになって埃にまみれてるのか、わかんないです。で、ご存知の通りライブラリの部屋に入っていくということはまるで、「禁断の園」に足を踏み入れるような部分がありますでしょ。それは必要なことなんだけど、こういう場面になるとおいおい大丈夫かよっていう部分もありますね。
N 東京都体育館でやったのが現行のバージョンということですね。
T そうですそうです、はい。
N それを世界一周旅行に持って行った。
T はい、それを持って行きました。真ん中のフルートソロ、信濃追分の部分は、要するに簡単に言ってしまえば吉田雅夫(よしだ まさお 1915-2003)さんを前提にして、吉田さんだったらこう書いときゃ、きっとあの人いろいろ理屈で考えて、いろいろごちゃごちゃやる人だったんで、いろいろくっつけるだろうなぁ、という風に思って書いたりして、もうほんとにあの当時のN響のメンバーの一人ひとりの顔思い浮かべて書いてますから。あのクラリネットは大橋幸雄(おおはし ゆきお 生没年不明)さんとか、フルートは吉田さんとか、ファゴットは三田平八郎(みた へいはちろう 1915-1981)さんとかいう風に、もうお一人おひとりの顔思い浮かべて作曲したのが当時の現状です。
N 出来れば「ラプソディー」をオリジナルの形で一度演奏してみたいなと思うんですけどね。
T うーん、N響のどっかにあるんだろうけど、全部こう切っちゃてる。あの当時全盛を誇った岩城宏之がこの部分はいらねえよって言ったら、あっそうかって言ってパチってやった可能性もゼロではない。でも探してみる価値あるかもなぁ。
N それじゃ、一度探しに行ってみますか!
T ハッハッハ…、そうだね。
 
 
 
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