フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)
序曲「真夏の夜の夢」 ホ長調 作品21
ドイツ初期ロマン派を代表する作曲家メンデルスゾーンが、17歳時に書いた、演奏会用の序曲。彼の序曲の中では「フィンガルの洞窟」と並ぶ代表作となっている。
少年時代から読書家だったメンデルスゾーンは、1826年に読んだシェイクスピアの戯曲「真夏の夜の夢」(1595年頃の作)からインスピレーションを得て、同年8月にまずピアノ連弾曲の形で本作を完成した。その後オーケストレーションを施し、自宅における演奏会で試演。翌1827年2月に公開初演された。さらに1843年、プロイセン国王ヴィルヘルム4世の命で書かれた劇付随音楽(全12曲)の序曲にそのまま転用。17年の時を隔てた音楽が合体されることとなった。
戯曲自体は、盛夏ではなく夏至の頃、不思議な出来事が起きるとされる聖ヨハネ祭前夜の物語。オベロン王やいたずら好きのパックが活躍する妖精の世界、領主シーシアスや4人の恋人たちがいる宮廷の世界、ロバに変身させられる職人ボトムなどの村人の世界が入り混じり、魔法による大混乱の末に丸く収まるといった、おとぎ話的な喜劇である。
序曲は、17歳時の作といえども、15歳で交響曲第1番、16歳で名作の誉れ高い弦楽八重奏曲を生み出した早熟の天才メンデルスゾーンならではの、完成度が高い作品。物語の内容や妖精の世界の雰囲気を凝縮した、幻想的かつ爽やかな音楽が展開される。
曲は、アレグロ・ディ・モルト、ホ長調、自由なソナタ形式。まずは木管楽器による4つの和音(=妖精の和音)が、幻想の世界へと誘う。次いでささやくような弦楽器が妖精のたわむれ(この主題は中心的な存在となる)を表し、シーシアスの宮廷を表す堂々たる主題、優美な下降旋律による恋人たちの主題、弾んだ舞曲による村人たちの主題が登場。中間部で再び妖精の和音が奏された後、前出の楽想を用いたファンタスティックな音楽が繰り広げられ、妖精の和音で静かに消えていく。
●作曲年代 |
1826年 |
●初 演 |
1827年2月20日 カール・レーヴェ指揮。ドイツのシュテッティンにて。
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●楽器編成 |
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、
オフィクレイド(現在はテューバで演奏)、ティンパニ、弦五部
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マックス・ブルッフ(1838-1920)
ヴァイオリン協奏曲 第1番 ト短調 作品26
ブルッフは、ケルンに生まれたドイツ・ロマン派の作曲家。メンデルスゾーンやシューマンの流れを汲み、5歳年上のブラームスとほぼ同時期に活躍した。1865年コブレンツの音楽監督に就任し、以後指揮者としても活動。1890年から1911年まではベルリン音楽大学の教授を務めている。作品は、オペラ、交響曲、協奏曲(ヴァイオリン協奏曲も3曲ある)、室内楽曲、合唱曲など多岐におよび、19世紀後半には絶大な名声を誇った大家でもあった。ところが、現在一般に知られているのは、このヴァイオリン協奏曲第1番のほか、それぞれヴァイオリンとチェロをフィーチャーした「スコットランド幻想曲」、「コル・ニドライ」の2曲くらい。彼は、シェーンベルクなどの新ウィーン楽派やストラヴィンスキーが注目された頃まで生きたが、作風を変えることなく時代に取り残され、最後は20代に書いたヴァイオリン協奏曲第1番ばかりが脚光を浴びるのに不満を抱いていたともいわれている。
逆にみればそれだけ名作であり、同ジャンルの重要レパートリーとなっているこの曲は、コブレンツで活動を始めて間もない1866年=28歳時に作曲された。ブルッフは、自分の専門楽器ではないヴァイオリン曲を書く際、当時屈指の大ヴァイオリニストでブラームスの盟友としても知られるヨーゼフ・ヨアヒムから多くのアドバイスを得ている。本作は同年ケーニヒスレーヴという奏者によって初演された後、ヨアヒムの意見を取り入れて改訂。2年後の1868年、今度はヨアヒムの独奏によって大成功を収め、ブルッフの出世作となった。なお献呈はヨアヒムになされている。
曲は、メンデルスゾーンの協奏曲と同系のテイストをもった、甘美きわまりない音楽で、旋律の美しさが大きな魅力をなしている。また、第1楽章を「前奏曲」と名付けて第2楽章をメインに位置付けるなど、自由な形式で書かれているのも特徴。第1楽章と第2楽章が完全に繋がっていて、油断するといつのまにか第2楽章に入っているのだが、この連結はまさしくメンデルスゾーンの協奏曲に範を得たという。もちろんヴァイオリンの音色美や技巧もふんだんに楽しむことができる。
第1楽章:前奏曲、アレグロ・モデラート、ト短調、自由なソナタ形式。ヴァイオリンのカデンツァ風のソロで始まり、力感のある第1主題、流麗な第2主題を中心に、荘重さと優美さを併せもった音楽が展開される。両主題が再現されないまま、徐々に静まり、弦楽器の持続音で第2楽章へ移る。
第2楽章:アダージョ、変ホ長調。3つの主題が登場する自由な形の緩徐楽章。歌に充ちたロマンティックで瞑想的な音楽が続く。本作の白眉ともいえる有名な楽章。
第3楽章:フィナーレ、アレグロ・エネルジコ、ト長調、ソナタ形式。力強い2つの主題を軸にした、活気溢れるフィナーレ。ヴァイオリンの華麗な技巧が駆使され、最後はプレストとなって一気に終結する。
●作曲年代 |
1866年 |
●初 演 |
1866年4月24日 オットー・フリードリヒ・フォン・ケーニヒスレーヴのヴァイオリン、マックス・ブルッフ指揮。ドイツのコブレンツにて。
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●楽器編成 |
独奏ヴァイオリン、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、ティンパニ、弦五部
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アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)
交響曲 第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」
チェコ国民楽派の大作曲家ドヴォルザークは、オペラや交響詩も作曲したが、結果的に主軸を成したのは、時代の潮流である標題音楽ではなく、恩人のブラームス同様に、交響曲や室内楽といった“絶対音楽”だった。中でも重要な位置にある交響曲は、24歳から創作を開始している。その最後を飾るのが、前作第8番から4年ぶりに作曲されたこの作品。東欧圏の交響曲の中では最大、古今の全交響曲の中でも最上位の人気作である。
51歳を迎えた1892年9月、既に大家として国際的な名声を得ていたドヴォルザークは、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者ジャネット・サーバー女史からの熱心な誘いに応じて渡米し、1895年4月まで同音楽院の院長を務めた。ちなみに年俸は当時教えていたプラハ音楽院の3倍以上。ただし鉄道マニアの彼は、アメリカの新型機関車を見たかったがゆえに承諾したともいわれている。そして彼は当地で、黒人霊歌や先住民の音楽を知り、これらの要素と故郷ボヘミア色を融合させた、弦楽四重奏曲「アメリカ」、チェロ協奏曲等の名作を残した。その第1作が、1893年1~5月に作曲されたこの「新世界より」。同年12月カーネギー・ホールにて、ザイドル指揮/ニューヨーク・フィルハーモニック協会管弦楽団により初演され、同ホール史上空前ともいわれる大成功を収めた。
本作は、故郷ボヘミア音楽と同じ五音音階を用いた現地音楽への共感、新世界アメリカ─特にエネルギーに充ちたニューヨーク─の印象、母国への郷愁等が融合した作品。いわば「新世界“より”」発信されたドヴォルザークの“アメリカ便り”ともいうべき内容をもっており、彼の持ち味であるチェコの民族色にアメリカのテイストが加わったことで、多彩さとワールドワイドな普遍性をこれまで以上に備えた交響曲となっている。
曲は、名旋律の宝庫。中でも第2楽章のメイン主題は、後に歌詞が付けられ、「家路」等の名で普及した。序奏部のホルンによる動機が全楽章に登場する点も特徴であり、第4楽章にそれまでの3つの楽章の主題が登場するのもドヴォルザークの交響曲では唯一の例。また五音音階とシンコペーションの多用が際立っており、第4楽章の一打ちのみ(しかも弱音)というシンバルの用法も斬新だ。なお第2、3楽章は、アメリカ先住民の英雄を扱った詩「ハイアワサの歌」から霊感を得たといわれているが、作曲者自身「先住民やアメリカ民謡の精神を汲んで作曲しただけ」と語っているように、旋律の直接的な引用はなされていない。
第1第章:アダージョ−アレグロ・モルト、ホ短調、ソナタ形式。静々と始まる序奏に続いて、ホルンが奏する序奏の動機に基づいた第1主題、フルートとオーボエが奏する哀感を帯びた第2主題を軸に進行する。
第2楽章:ラルゴ、変ニ長調、3部形式。郷愁に充ちた緩徐楽章。イングリッシュ・ホルンが奏する主題を中心とした主部に、クラリネットの愛らしい旋律に始まる嬰ハ短調の中間部が挟まれる。
第3楽章:スケルツォ、モルト・ヴィヴァーチェ、ホ短調、3部形式。スラヴ舞曲風ともアメリカ先住民の音楽風ともとれる歯切れの良い主部に、軽く弾んだ中間部が挟まれる。
第4楽章:アレグロ・コン・フオーコ、ホ短調、ソナタ形式。力強く進むフィナーレ。行進曲調の第1主題が中心を成し、クラリネットが歌う優しい第2主題のほか、第1~3楽章の主題も顔を出す。最後は大きく盛り上がりながらも、管楽器の伸ばした音が減衰して終結。この珍しい終わり方に、本作がただの派手な音楽ではないことが示されているようにも感じられる。
●作曲年代 |
1893年 |
●初 演 |
1893年12月15日 アントン・ザイドル指揮。ニューヨークにて。
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●楽器編成 |
フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、イングリッシュ・ホルン、クラリネット2、ファゴット2、
ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、トライアングル、シンバル、弦五部
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