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第199回 定期演奏会   1月26日(火)
園田 隆一郎
砂川 涼子

創立35周年記念シリーズ
 
【ハイドン疾風怒濤の時代】
 
 
2016年1月26日(火)19時00分開演 
 
 ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)といえば、モーツァルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827)と共に、音楽史に一時代を築き上げた「ウィーン古典派」の一人ということは知っていても、その音楽や人物像に明確なイメージを描くのなかなか難しい人物ではないでしょうか。「パパ・ハイドン」「交響曲の父」などと呼ばれ、なんとなく知っているようなつもりになるのですが、モーツァルトやベートーヴェンと比べると、あまりのエピソードの少なさに驚かされます。  
 ハイドンがハンガリーの名家であるエステルハージ家に副楽長として請われたのは1761年のことでした。1762年に侯爵となったニコラウス・エステルハージ候に、とりわけ気に入られ、1766年には同家の宮廷楽長に昇進しています。ハイドンは約30年間にわたって、まさに人生の働き盛り、もしくはそれ以上の長い時間をエステルハージ家で過ごしました。宮廷に組織された名手揃いのオーケストラは多くても25人で、それほどの大編成ではなかったのですが、腕利きも多く、作曲家ハイドンの楽器として、申し分のないものだったようです。ここで数々の交響曲が創られることになるのですが、「私は世間から切り離されていて、周囲には惑わすものも悩ますものもなく、そのために独創的にならざるを得なかった」というハイドン自身の言葉通り、様々な音楽上の実験が試みられました。ハイドンの音楽は大層独創的と言ってよいのです。

 
歌劇『無人島』序曲 Hob.Ia-13
 
 1766年にエステルハージ家の楽長を務めていたウェルナーが亡くなったことに伴い、ハイドンは宮廷楽長へと昇進しました。従来の器楽曲を中心とした作曲活動に加え、教会音楽とオペラに代表される劇音楽の作曲が求められたのです。ニコラウス候の願いにより新たにエステルハーザ宮殿が建築され、オペラの上演が存分にできるようになったのも同じ年でした。1776年になると、ニコラウス候は歌手とオーケストラを合わせた音楽家を30人に増員し、エステルハージ家で本格的なオペラ上演が始まります。その後、ニコラウス候が亡くなる1790年までの14年間に、ハイドンは自作も含めて88作ものオペラを初演しました。手がけた作品は多岐にわたり、イタリアやウィーン、パリの様々な作曲家が書いたオペラをハイドンは一手に引き受けて演奏したのです。この経験がハイドン自身の音楽語法の変化に大きな影響を与えたことは、容易に想像ができます。  
 歌劇『無人島』は、1779年(47歳)にエステルハージ家のエステルハーザ宮廷劇場で初演されました。大西洋上のとある無人島に立ち寄った新婚旅行中のコンスタンツァは、夫のジェルナンドと生き別れになってしまいます。夫は海賊に捕らわれてしまったのですが、妻はそのことを知りません。コンスタンツァは失望の中、この無人島で、一緒に来ていた妹のシルヴィアと暮らします。数年が経ち、夫のジェルナンドは、同じような境遇で捕らえられていたエンリーコと共に、妻を探すためにようやく島を訪れます。まず、エンリーコとシルヴィアが出会い、さらにジェルナンドはコンスタンツァとの再会を遂げます。夫が裏切ったと絶望していたコンスタンツァの誤解は解け、エンリーコとシルヴィアも結ばれて大団円となります。  
 〈序曲〉はこの時期の特徴とも言えるシンプルな造形で書かれた音楽。薄い響きの序奏に続き、駆け抜ける主部は後で述べる「疾風怒濤」の時代を引き継ぐものではありますが、その後に繰り広げられる静寂の響きには新たな境地が感じられます。再び音楽は疾走してオペラの幕が上がります。


歌劇『アルミーダ』よりアルミーダのレチタティーヴォとアリア
「私があなたを愛しているのを分かって~憎しみ、怒り、侮辱、苦しみが」
 
 歌劇『アルミーダ』は同じくエステルハーザ宮廷劇場で、1784年(52歳)に初演されます。ハイドンがエステルハージ家のために書いた最後のオペラになりました。実はこの劇場は1779年に火災で全焼してしまったのですが、ニコラウス候は直ちに劇場の再建を命じ、1781年に新たな劇場で『むくいられた真心』というオペラが落成記念として初演されています。  
 『アルミーダ』はハイドンが初めて書いた「オペラ・セリア」(シリアスなオペラ)でした。原作はトルクアート・タッソの叙事詩「エルサレム解放」。ヘンデルをはじめ相当数の作曲家が取り組んでいて、後にロッシーニも手がけた有名な題材です。タイトル・ロールのアルミーダが主人公であり、敵陣に送り込まれた魔女で、十字軍の騎士リナルドの恋人です。十字軍に戻ろうとするリナルドに対し、アルミーダが「彼は行ってしまった」と嘆き悲しみます。そして第2幕で、リナルドの愛の誓いが破られたことを怒り歌うのが、この「私があなたを愛しているのを分かって~憎しみ、怒り、侮辱、苦しみが」となります。決然としたレチタティーヴォとアリアであり、毅然とアルミーダはリナルドに対して自分の考えを述べます。その後、アルミーダは最後まで、リナルドへの復讐を誓い続けるのでした。


●交響曲 第49番 ヘ短調『受難』 Hob.I-49
 
 1766年から1773年にかけては、ハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング時代」と呼ばれています。"シュトゥルム・ウント・ドラング"を日本語に訳せば、「疾風怒濤」となるのですが、これはゲーテなどの文学の潮流から転用された言葉になります。強い感情の表現と意欲的な実験を重ねたこの時期の交響曲は、傑作揃いで充実した創作が続きました。    
 この交響曲は1768年(36歳)頃の作曲とされます。『受難』というタイトルはハイドン自身によるものではないのですが、ハイドンの生前になる18世紀中には付けられていたようです。「受難」とは、当然、キリストの受難を意味していて、当時は様々な作曲家がこのテーマで交響曲を手掛けていたという研究もあります。「緩-急-メヌエット-急」という楽章構成はバロック時代の教会ソナタにルーツを持ち、全楽章が短調で書かれたこの作品は、悲劇的な要素が強く、確証はないものの聖金曜日、つまり復活祭前の金曜日で、キリストの受難と死を記念する日における演奏を目的として書かれた可能性はかなり高いようです。    
 前述の通り、4つの楽章で構成。第1楽章〈アダージョ〉は十字架を背負って歩むように音楽が続きます。引きずるように音が暗いままに運ぶのです。第2楽章〈アレグロ・ディ・モルト〉は激しく表出する「疾風怒濤」の音楽。見通しの定まった端正な内容です。第3楽章〈メヌエット〉も暗いままにステップが刻まれますが、それだけにトリオ部分で緩やかに差し込む明るい光に救われます。第4楽章〈フィナーレ:プレスト〉は緊迫感が戻り、激情のフィナーレとなりました。


●シェーナ「ベレニーチェ、どうするの?お前の愛する人が死ぬというのに」
   
 1790年にニコラウス候が没すると、後を継いだ息子のアントン候に音楽の趣味はなく、宮廷楽団は事実上の解散となりました。仕事がなくなったハイドンは自由な音楽活動を始めようと、エステルハージ家を辞してウィーンに移ったのですが、ここぞとばかりに宮廷楽長への招聘要請が舞い込んできます。そこに、さらに魅力的な誘いがありました。ロンドンのペーター・ザロモンから、新作の交響曲を含んだ演奏会の企画が持ち込まれたのです。彼はヴァイオリンの名手であり、また、オーケストラのリーダーで、さらには作曲もする人物でしたが、何よりも優れた興行主として活躍をしていました。1791年1月にロンドンへザロモンと共に渡ったハイドンは旺盛な演奏活動を繰り広げます。1792年にウィーンに一度戻ったのですが、1794年に再びロンドンへ赴いて、ザロモン主催のコンサート・シリーズに出演します。    
 シェーナ「ベレニーチェ、どうするの?お前の愛する人が死ぬというのに」は、この2度目のロンドン渡航時のほぼ最後の時期にあたる1795年(63歳)5月4日に、キングズ劇場で開かれた慈善演奏会で、ハイドンの最後の交響曲となる《交響曲第104番「ロンドン」》と同時に初演されます。シェーナというのは、日本語で劇唱と訳され、オペラのアリアの前に歌われる劇的で迫力のある独唱とも説明されますが、ここでは一種のコンサート・アリアと考えてよいでしょう。    
 テキストはギリシア悲劇をもとにピエートロ・メタスタージオが台本を書いた『アンティーゴノ(アンティゴネ)』から採られています。劇場のプリマドンナだったブリジダ・バンティのために書かれました。エジプトの女王ベレニーチェが、愛するデメートリオの死を悼みます。状況がレチタティーヴォ風に激しく語られ、「行かないで、私の愛しい人」と永久の別れの苦しみと共に、自らも命を絶つ決意が劇的に歌われます。


●交響曲 第45番 嬰ヘ短調『告別』 Hob.I-45
 
 「シュトゥルム・ウント・ドラング時代」の交響曲の中で、最後に書かれたと考えられているのが、1772年(40歳)に作曲され、「告別」のニックネームで親しまれるこの《第45番 嬰ヘ短調》です。題名は作品の誕生後10年ほどが経過した頃に、ハイドンではなく別人がつけたものですが、まさにこの作品を体現したものとなっています。つまり、この曲の最終楽章である第4楽章には、各奏者が自分の楽譜を演奏し終えると、舞台から順番に去っていくという指示が書き込まれているのです。それと合わせて、当時は演奏用の明かりはロウソクを灯してその用途に当てていたのですが、それぞれの退場時に自分が使ってた燭台のロウソクを消していくという演出も付きました。最後にヴァイオリン奏者が二人だけ残るころには、ほのかな明かりしか残っていないということになります。現代は電球の照明ですので、これをどうやって再現するのかは実際の演奏を楽しみになさってください。  
 さて、なぜこのような指示をハイドンは書いたのかということが気になります。オペラを上演したエステルハーザ宮廷劇場は、エステルハージ家の居城があるアイゼンシュタットから40km離れたノイジートラー湖のほとりに位置していて、ここで音楽が奏でられる夏の間、ほとんどの楽士たちは家族と離れて単身赴任をしていました。この年に滞在期間の延長を命じられた彼らは、「それはたまらない」とハイドン楽長に懇願し、ハイドンが講じた策がこの交響曲に込められたというのです。曲を聴いたエステルハージ候は即座に意図を理解して、楽士たちに休暇を与えたと伝えられます。ほかにも、楽士の解雇をやめるよう訴えるためなど諸説あるのですが、どちらにしても演出意図は明確で、エステルハージ候に何らかの申し出があって作曲されたことは間違いありません。  
 「急-緩-メヌエット-急/緩」という4つの楽章で構成。第1楽章〈アレグロ・アッサイ〉は嵐が吹き抜けるが如く、まさに「疾風怒濤」の音楽です。第2楽章〈アダージョ〉は対照的に静寂のなか、律動的な音楽が刻まれます。第3楽章〈メヌエット:アレグレット〉は愛らしいメヌエット。第4楽章〈フィナーレ:プレスト-アダージョ〉で再び激しい表情が回帰し、その後に前述の演技が始まります。


(C)小味渕彦之(音楽学,音楽評論) (無断転載を禁じる)
 
 
  
                                
 
 
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