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第197回 定期演奏会  10月21日(水)
篠崎 靖男
金子 三勇士 (C)Akira Muto

創立35周年記念シリーズ
【祖国への思い、情熱、集中・・・】
~シベリウス生誕150年~
 
2015年10月21日(水)19時00分開演

 
細川俊夫 弦楽オーケストラのためのセレモニアルダンス

武満徹(1930~1996)以降の日本の作曲家で、最も国際的な評価と知名度の双方を獲得しているのは、細川俊夫(1955~)ではないだろうか。日本での紆余曲折の後、1976年から82年にベルリン芸術大学でユン・イサンに、83年から86年にフライブルク音楽大学でクラウス・フーバーに作曲を学んだ細川は、1980年、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加し作品を発表して以来、ヨーロッパと日本を軸に創作活動を展開している。
「プレリューディオ」(1982年)がベルリン・フィル創立100周年記念作曲コンクールで第1位を獲得。1989年には「遠景」で尾高賞を受賞。近年の創作を顧みても、2004年にはエクサンプロヴァンス音楽祭の委嘱による2作目のオペラ「班女」、2005年ザルツブルク音楽祭からの委嘱によるオーケストラ作品「循環する海」(ウィーン・フィルによって初演)、第5回ロシュ・コミッション(2008年)受賞による委嘱作であるオーケストラのための「夢を織る」(クリーヴランド管弦楽団によって2010年にルツェルン音楽祭、カーネギー・ホール等で初演)、2011年にはブリュッセルのモネ劇場からの委嘱オペラ「松風」と、ベルリン・フィルとバービカン・センター、アムステルダム・コンセルトヘボウの共同委嘱の「ホルン協奏曲~開化の時~」、2013年にはザルツブルク音楽祭からの2度目の委嘱として、ソプラノとオーケストラのための「嘆き」、アンサンブル・ウィーン=ベルリンからの委嘱作「古代の声」が生み出され、オーケストラのための「夢を織る」が英国作曲賞国際部門賞を受賞した。昨年は、ヒリヤード・アンサンブル、アルデッティ弦楽四重奏団からの委嘱作や、ニューヨーク・フィル・ビエンナーレでモノ・オペラ「大鴉」が初演されている。正に八面六臂の活躍ぶりである。その作品を指揮した指揮者は、ヴァレリー・ゲルギエフ、フランツ・ヴェルザー=メスト、サイモン・ラトル、シャルル・デュトワ、大野和士をはじめ多士済々。
2001年にドイツ・ベルリンの芸術アカデミー会員、2012年にはドイツ・バイエルン芸術アカデミー会員に選出された。尾高賞、中島健蔵音楽賞、ラインガウ賞、デュイスブルク音楽賞、ARD―BMWムジカ・ヴィヴァ賞など受賞歴も多いが、2012年には紫綬褒章も受賞している。
現在は、武生国際音楽祭音楽監督、東京音楽大学及び郷里広島のエリザベト音楽大学客員教授の任にも当たっている。
細川の作品が、なぜ世界で受け入れられるのか?確かな作曲技法に支えられた中に、西洋の作曲家とは異なる精神的背景を、細川の作品は持っている。西欧の人々が理解し易い語法を使いながら、日本人である精神世界を、人類という共通項で語るからこそ、細川の作品は世界で受け入れられたのではないだろうか。
「セレモニアルダンス」は、財団法人・新日鐵文化財団が、紀尾井シンフォニエッタ東京と尾高忠明のために委嘱し、このコンビによって2000年10月20日に紀尾井ホールで初演された。半音の更に半分の4分の1音の音程を上げ下げする部分も持つ、弦楽オーケストラのためのこの作品は、大阪交響楽団の弦セクションの魅力を満喫させてくれるに違いない。


プロコフィエフ ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26

セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)の生涯は、第一次世界大戦やロシア革命、ソヴィエト連邦、第2次世界大戦といった激動の世界に翻弄されたものであった。ウクライナのエカテリノスラフ地方ソンツォフカに生まれたプロコフィエフは、母親に音楽的才能を見出され、ピアノの手ほどきを受ける。少年時代には、グリエールに指導を受け、ピアノ曲や交響曲、オペラまで作曲する。1904年から14年はペテルブルグ音楽院でリムスキー=コルサコフやチェレプニンらに学ぶ一方、年長の学友アサフィエフやミャスコフスキーらと前衛的な作曲技法を模索した。1908年、斬新なピアノ曲で作曲家デビュー、12年のピアノ協奏曲第1番、13年のピアノ協奏曲第2番等の作品は、音楽界に衝撃を与えた。西欧でも注目を集めたプロコフィエフは、14年にイギリスへ渡る。ロシア・バレエ団を率いるディアギレフの知遇を得たプロコフィエフは、その支援を得て15年にはローマ・デヴューを果たす。第1次世界大戦中はロシアに留まり「古典交響曲」等を生み出したが、ロシア革命後はソヴィエト連邦新政府の芸術的制約を危惧し、18年春にシベリア~日本を経由しアメリカへ亡命した。アメリカでの活動の展開が予想に反したプロコフィエフは、失意のうちにパリに移住するが、ここでもプロコフィエフは受け入れられず、祖国への郷愁を募らせることとなった。27年にソ連からの公式招待に応じたプロコフィエフは、9年ぶりに祖国の土を踏む。三ヶ月の滞在は、熱狂的な歓迎を受ける。フランスに戻ったプロコフィエフは、西側での成功も収めるが、政治に無関心なまま、36年に祖国に帰国する。この年は、有名な「ショスタコーヴィチ批判」が起こった年であった。独裁者スターリンのもと、多くの非難と制約、弾圧がプロコフィエフを襲う。ソ連の過酷な状況と折り合いをつけながら、厳しい生涯を送ったプロコフィエフは、ショスタコーヴィチとはまた別の「ソ連に翻弄された天才」の1人であったと言えるだろう。そのプロコフィエフが亡くなったのは、彼を苦しめた張本人であるスターリンの没したのと同じ日であった。
ピアノ協奏曲第3番は、そんなプロコフィエフの亡命中に生み出されている。ロシア時代に最初の着想を得たこの曲は、途中何度かの中断を経て、1921年12月にシカゴで、作曲者自身のピアノ、ストックの指揮で初演され、暖かく迎えられた。作曲中に、プロコフィエフはブルターニュ滞在中のロシア象徴主義の詩人バリモントにこの曲を聴かせる。バリモントは、即座に14行のソネットを書き上げたという。その最後の3行を引用してみよう。

プロコフィエフ!花咲く音楽と青春、
君の中にオーケストラは夏の忘我を慕い
不屈のスキタイ人は太陽のタンブリンを打ち鳴らす

シカゴでは小さな成功を得たピアノ協奏曲第3番であったが、翌年1月26、27日にコーツ指揮で行われたニューヨーク公演では理解も支持もされなかったと伝えられている。 
 この曲が大成功を収めたのは、1922年のパリとロンドンでの公演であった。
プロコフィエフの協奏曲は、ピアノが5曲、ヴァイオリンとチェロにそれぞれ2曲、更にチェロのための小協奏曲がある。ピアノ協奏曲5曲は、すべてプロコフィエフがソ連に復帰する前に作曲されている。前衛作曲家としてのプロコフィエフのある種の「攻め」の姿勢が反映されている。自身がピアニストとしても一家をなすヴィルトゥオーゾであったため、極めて高度な演奏技術が必要とされる。中でも第3番は、最も有名な作品で、プロコフィエフ自身も多く演奏している。

第1楽章 アンダンテ~アレグロ 自由なソナタ形式
第2楽章 アンダンティーノ 変奏曲
第3楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ ロンド形式


シベリウス 交響曲 第1番 ホ短調 作品39

ヤン・シベリウス(1865~1957)は、今年生誕150年、細川俊夫の90年前にフィンランドに生れている。ヘルシンキの北、ハメーンリンナの軍医兼開業医の息子として生まれたシベリウスは、3歳の時に父を失うが、親戚の援助でヘルシンキ大学に進学し、同時にヘルシンキ音楽院でヴァイオリンも学ぶ。1年で大学をやめ、音楽に専念したシベリウスは、ピアノ教授のブゾーニ、作曲家アルマス、画家アーネフェルト兄弟らとグループを結成する。このアーネフェルト兄弟の妹アイノとシベリウスは恋に落ち、後に結婚する。
フィンランドは、スウェーデン人によって属領化された後に、1809年にはロシア帝国の自治大公国となる。この時代にフィン人によるフィン文化が覚醒することとなる。
現代でもフィンランドの公用語は、スウェーデン語とフィンランド語の双方であり、先史時代の後は、1155年から1809年のスウェーデン時代、1809年から1917年のロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代を経て、フィンランドは独立国家となったのだ。フィンランドは「フィン人の国」という意味だが、フィン人の住むこの地にスウェーデン人が移住し、フィンランドという国の土台が形成されたのだ。スウェーデン文化に席巻されていたフィンランドが、ロシアによる支配の時代に、フィン文化に目覚めたのである。
シベリウス自身はスウェーデン語系の家庭の出身であったが、愛するアイノの家系の影響で、フィン文化にのめりこんでいった。 
 シベリウスは23歳で音楽院を卒業した後、ベルリンとウィーンに学び、室内楽の習作から管弦楽の作曲に着手、1892年にフィン文化の精髄である叙事詩「カレワラ」に題材を求めた「クレルヴォ交響曲」を発表し好評を得る。交響詩「トゥオネラの白鳥」や「レミンカイネンの帰郷」で名声を獲得したシベリウスは、満を持して交響曲に歩みを進める。
シベリウスが交響曲第1番に着手したのは、1898年4月末頃だったと言われる。この直前の3月にベルリンで聴いたベルリオーズの幻想交響曲に強い衝撃を受けたシベリウスは「3月2日、幻想交響曲を聴く。おお、何と聖なるインスピレーション!聖なる女神!」というメモを
残している。  
 1899年4月26日、シベリウス自身が指揮するヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団による初演は大成功を収めた。しかし、シベリウスはこの交響曲の改訂を行う。改訂の直接的な契機は、ヘルシンキ・フィルハーモニーのパリ万博参加とする説もあるが、異論もある。正しい理由はわからないが、改訂は極めて短期間に集中して行われた。改訂版は、1900年7月1日に、ヘルシンキで催されたパリ万博壮行コンサートで初演され、尚一層の成功を収めた。改訂版の指揮は、フィンランドの名指揮者ロベルト・カヤヌス(1856~1933)が行った。
1900年にはシベリウスの代名詞とも呼ぶべき交響詩「フィンランディア」が生み出されている。

第1楽章 アンダンテ・マ・ノン・トロッポ~アレグロ・エネルジーコホ短調
第2楽章 アンダンテ(マ・ノン・トロッポ・レント) 変ホ長調
第3楽章 アレグロ ハ長調
第4楽章 アンダンテ~アレグロ・モルト ホ短調

 
 
  
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