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第194回 定期演奏会   5月29日(金)
寺岡 清高
譜例1~4
譜例5~8
譜例9~10
各曲の楽器編成

創立35周年記念シリーズ
【自然・人生・愛~マーラーとそのライヴァルたち③】
 
 
2015年5月29日(金)19時00分開演 
 
 
 1896年から97年にかけて、アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)は交響詩5曲を立て続けに作曲した。だが、それら一連の交響詩は、さらにいえばこの時期のドヴォルザークの生涯は影に隠れがちである。その理由とは何か?
 1つ目には、管弦楽曲のレパートリーにおけるドヴォルザークの立ち位置が、「交響曲作家」と捉えられがちなこと。たしかに彼は、数々の傑作交響曲を遺しただけでなく、当時このジャンルを代表する作曲家と言われていたヨハネス・ブラームス(1833-1897)と親しかった。またそうした事情も手伝い、当時の音楽界を二分していた「進歩派リスト/ワーグナーvs. 保守派ブラームス」論争の中で後者の陣営に属すると見なされ、例えば同郷の先輩であり、「進歩派」に傾倒していたベドルジハ・スメタナ(1824-84)のライヴァルと喧伝されもした。
 2つ目には…こちらも上の事情と重なるが…、ボヘミア(現在のチェコ西部)の寒村に生まれたドヴォルザークが、ウィーン音楽界の重鎮ブラームスに認められたことをきっかけに、イギリスさらにはアメリカへわたって活躍するという「成功譚」の後、再びボヘミアに戻って最後の10年あまりを送ったということ。アメリカ時代、彼は有名な『交響曲第9番〈新世界より〉』を発表し、それ以降交響曲を書くことはなかったが、そうなるとボヘミア帰郷以降の作品群が、「余生」の中で書かれた「オマケ」のようにも映ってしまう。
 3つ目には、ドヴォルザークの一連の交響詩が、交響詩の歴史の中でも黄昏の時代に属している点。そもそも「交響詩の祖」と言われるフランツ・リスト(1811-86)が、第一作目の交響詩『人、山の上で聞きしこと』を作曲したのは1849年だった。だがその流れを汲み、このジャンルの歴史を塗り替えたリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)が、彼にとって最後の交響詩『英雄の生涯』を作曲したのは1898年であって、20世紀に入ると交響詩そのものが急速に衰退してゆく。となると、ドヴォルザークがようやくこのジャンルに手を伸ばしたのは、遅きに失したともいえよう。
 だが果たして、そうした見方は正しいのか?例えば、1895年にアメリカからボヘミアに戻って以降のドヴォルザークの作曲活動に注目してみたい。この時期の彼は、今まで手がけたことのなかったジャンル、あるいはそれまで成功を収めたことのなかったジャンルへ積極的に乗り出した。とりわけ後者の成功例としては、スラヴ神話に基づく水の精をめぐる悲恋を題材にした『ルサルカ』(1900年)が挙げられ、これは現在もなお世界各地の歌劇場で重要なレパートリーとして定着している。
 つまり、ボヘミア帰郷後のドヴォルザークはそれまでの様々な経験を基に新たな道を切り拓いていった。「進歩派」の専売特許と目されていた標題音楽の典型的存在である交響詩に、「保守派」の一大特徴である純粋音楽の、特に交響曲の要素が色濃く取り入れられ、ドヴォルザーク特有の民族色溢れる旋律や和声にも事欠かない。そうでなくてもドヴォルザークの経歴を省みるに、ブラームスの影響を大きく受ける一方で若き日にはワーグナーに傾倒していた時期もあり、そうした姿勢は彼の後輩格にあたるグスタフ・マーラー(1860-1911)においても例外ではなかった。(マーラーの場合、現在『交響曲第1番』として知られている作品は元々交響詩として構想された。)しかもドヴォルザークは、自作の交響詩を「オーケストラのためのバラード」と名付けたり、曲のどの部分がどのような標題に対応しているかといった説明を最初から必ずしもおこなわなかったりといった具合に、絶対音楽か標題音楽かという党派争いを超えた新たなジャンルを目指したのである。

 
 ドヴォルザークは「国民楽派」という括りで捉えられることが多く、彼自身、当時オーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれていたボヘミアへの強い愛国心を抱いていた。アメリカから戻ってきた後、ボヘミアの古都プラハに腰を下ろしたり、この街の音楽院で教鞭をとったりしたのもその表れといえよう。また先述した『ルサルカ』を、チェコ語で書かれたテキストに基づいた国民的オペラと見なすことも可能であって、初演の場所も、ボヘミア民族運動の象徴であるプラハ国民劇場だった。
 ただしドヴォルザークは同時に、ボヘミアの支配者であるオーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンとも密接な関係を持っており、さらにワーグナーやブラームスとの関係からも分かるように、ドイツ語圏のロマン派=いわゆるドイツ・ロマン派の作曲家でもあった。そしてそのような括りで考えた時、彼の交響詩にはドイツ・ロマン派の特徴である伝承への着目と沈潜が明確に刻みこまれている。(ドイツ・ロマン派も「国民楽派」と同じく、ナショナリズムの高まりを背景に民族のルーツといえる伝承へ着目したものの、そこに過度に沈潜してゆく中で怪奇性や残虐性すらをも伝承に求め、それを創作活動の糧としていった。)
 じっさい、ドヴォルザークが書いた5つの交響詩の中で『英雄の歌』を除く4曲は、カレル・ヤロミール・エルベン(1811-70)が編んだ『民話の花束』(1853年初版)に依っている。エルベンはボヘミアのグリム兄弟といった存在で、歴史家であると同時にスラヴ文化圏の民話や民謡の収集家であり、さらにはロマン派の系譜に連なる文筆家でもあった。もちろんエルベンはグリム兄弟とは異なり、ゲルマン文化圏のオーストリア= ハンガリー帝国ではなく、スラヴ文化圏の中にボヘミアを位置づけようとするナショナリズムに根差してこの民話集を編んだのだが、…まるで「グリム童話」のように…民話の中に巣食うグロテスクな側面を炙り出してやまない。
 そしてこのようなエルベンの民話集に、ドヴォルザークは触発された。結果、ロマン派と国民楽派の重なり合う場所に位置する、彼ならではの交響詩が生まれた。



『水の魔物』作品107

〔ストーリー〕
1)水の魔物が不気味に蠢く【譜例1】‐魔物に魅入られた娘が水中に無理矢理引きずり込まれる→2)水の世界に閉じ込められた娘の哀れな日々→3)魔物との間に生まれた子供に対して娘が歌う子守唄【譜例2】‐夜明けまでには戻ると魔物に約束し、娘は母の住む地上へ一時帰郷する→4)夜明けの鐘が鳴る中で娘を取り返しにやって来た魔物は、母の家の扉を激しく叩くものの、娘が戻って来ないため、腹いせに子供の首をもぎ取り、家の前に置いて立ち去る‐子供の死体を見つけた母と娘の衝撃と嘆き
 
水の魔物は、速いテンポのオスティナートリズムに乗せて、フルートを中心にした神秘的な響きで描写される。これはフェーリクス・メンデルスゾーン(1809-47)が劇付随音楽『真夏の夢』で、森の精霊を表現する際に用いた手法。全体はロンド形式となっており、水の魔物の執拗さが繰り返し立ち現れる中で、陰惨かつ凄惨な情景が明滅する。

【作曲】1896年1月6日~2月11日
【試演】1896年6月3日 プラハ アントニン・ベネヴィッツ指揮
【初演】1896年11月14日 ロンドン ヘンリー・ウッド指揮



『真昼の魔女』作品108

〔ストーリー
1)長閑な村の描写‐むずかる子供に母親が「悪いことをすると真昼の魔女がやって来る」と脅す【譜例3】→2)昼の12時を告げる鐘が鳴った瞬間、本物の魔女が現れ子供に襲いかかる【譜例4】‐母親は子供を守ろうとするが気を失う→3)帰宅した父親が、子供の死体を抱いたまま気絶している母親を発見する

全体は3つの部分から成っており、1)において、ボヘミア情緒溢れる美しい旋律と同時に、これから起きる惨劇を予感させる緊迫感溢れる瞬間を随時打ち込んでゆく手法は、ドヴォルザークならではのもの。また2)で魔女の襲来を描写するにあたっては2つの異なる拍子が用いられ、恐るべき存在の跳梁が敢えてぎくしゃくと表現される。

【作曲】1896年1月11日~2月27日
【試演】『水の魔物』に同じ
【初演】1896年11月21日 ロンドン ヘンリー・ウッド指揮



『金の紡ぎ車』作品109

〔ストーリー〕
1)さる王が所持する金の魔法の紡ぎ車が次のような物語を話す【譜例5】‐王が美しい娘【譜例6】を見初めて結婚したいと願う→2)そのことを知った継母は彼女の代わりに姉を王に嫁がせようと考え、娘を殺しばらばらにして森に捨ててしまう→3)魔法使いが森で娘の遺体を見つけ、彼女を生き返らせる→4)戦に出ていた王が城に戻ると、金の紡ぎ車が一連の事件について語る‐事の真相を知った王は継母と姉を死刑にし、生き返った娘と結婚する

金の紡ぎ車の語りを中心に曲が展開するよう、元々の時系列的ストーリーが再構築されている。しかも「紡ぎ車/王」「娘」という2つ…ないし3つ…の対照的な主題が提示される1)を振り出しに、スケルツォ風の2)、緩徐楽章的な3)、フィナーレ4)といった具合に四楽章形式の交響曲をも踏まえており、交響曲的バラードともいえる構成だ。

【作曲】1896年1月15日~4月25日
【試演】『水の魔物』に同じ
【初演】1896年10月26日 ロンドン ハンス・リヒター指揮



『野鳩』作品110

〔ストーリー〕1)葬送行進曲の調べに乗って【譜例7】若妻が夫の死を嘆いている(だが実のところ彼女は彼を毒殺したという過去を持つ →2)彼女は別の若い男と出会い、恋に落ちる→3)2人の結婚披露宴でボヘミア風の舞曲が演奏される【譜例8】→4)前夫の墓に詣でたところ、夫殺しの真相を野鳩に暴露された若妻は自殺を決意するが、突如大いなる許しの瞬間が訪れる

エルベンのオリジナルとは異なって、ドヴォルザークは終結部に独奏ヴァイオリンを用い、世の価値判断を超えて起こりうる人間存在の苦しみに対する許し、あるいは死の中に明滅する愛の瞬間を描いた。それは後輩のマーラー等が当時追い求めていた人生哲学を彷彿させ、ドヴォルザークも世紀末芸術に連なる1人だったことを再認識させる。

【作曲】1896年10月22日~11月18日(1897年に改訂)
【初演】1898年3月20日 ブルノ レオシュ・ヤナーチェク指揮



『英雄の歌』作品111

ドヴォルザークの交響詩の中で、曲の各部分に対する標題を持たない唯一の作品。闘争的な第1部【譜例9】、葬送の調べすら想起させる嘆きに溢れた第2部【譜例10】、慰めに満ちた第3部、闘争と勝利が謳われる第4部から成り、四楽章制の交響曲を彷彿させる「交響曲的交響詩」といった様相を呈している。なお「英雄」とは、作曲中に世を去ったブラームスを念頭においたものという見解も多数存在するほど。実際、当作品が初演された際には、ブラームスと同郷のメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』序曲と並び、ブラームスの『交響曲第2番』が上演され、音楽によるブラームス追悼がおこなわれた。

【作曲】1897年4月4日~10月25日
【初演】1898年12月4日 ウィーン グスタフ・マーラー指揮
 


(C)小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家・横浜国立大学教授)
 
     譜例作成:森 洋久
 
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