大阪交響楽団 2014年度 定期演奏会 曲目解説

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第190回 定期演奏会  12月15日(月)
譜例
寺岡 清高
C.ヒンターフーバー

シェイクスピア生誕450年記念【ジュリアス・シーザー】
≪自然・人生・愛~マーラーとそのライヴァルたち②≫

2014年12月15日(月)19時00分開演
 
  19世紀後半、ウィーンは音楽史上稀に見る豊穣の時代を迎える。都市大改造が進む中、宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)や楽友協会新会館がオープン。従来にも増して、理想的な環境で音楽に接する機会が増えた。またソフト面においても、例えば楽友協会の演奏会監督をヨハネス・ブラームス(1833-97)が務めたり、同協会が運営していた音楽院=楽友協会音楽院にアントン・ブルックナー(1824-96)が教授として就任したりするなど、優れた音楽家がこの街の音楽文化を活性化させていった。
  いっぽう当時、ウィーンを都にヨーロッパに冠たる巨大国家を築いていたハプスブルク家の支配する帝国は、様々な内憂外患に見舞われ、国の威信が動揺を遂げていた。だがかえってそれを逆手に取る形で、文化国家としての姿を内外にアピールするという戦略が、国策として展開されてゆく。典型的な例として、ウィーンが「音楽の都」であることが折に触れて強調されるようになった。その結果、この街は名実ともに一層音楽的な充実を遂げ、多くの優れた才能が輩出する類まれな状況が生まれていった。

  その中で、早熟ともいえる才能に恵まれつつも、生き急ぐかのような人生を送ったのがハンス・ロット(1858-84)である。彼は短い生涯のうちに、管弦楽曲、室内楽曲、歌曲、ピアノ曲等、幅広いレパートリーを手がけた、また実現こそしなかったもののオペラの創作も考えており、その証拠の一つが『〈ジュリアス・シーザー〉への前奏曲』といえる。実際に曲の終わり方を聴くと、これがオペラか劇附随音楽の幕開けを飾るものとして意図されていたことが如実にうかがえる。
  作品が書かれたのは1877年のこと。当時のウィーンではウィリアム・シェークスピア(1564-1616)の戯曲『ジュリアス・シーザー』が人気演目であり、ロットもそれに触発され、オペラ化の構想を抱いたようだ。チューバを含む比較的大きな編成が要求されているのも、劇場のオーケストラを想定してのことだろう。またオーケストレーションという点からいえば、当時の若手音楽家たちを魅了していたリヒャルト・ワーグナー(1813-83)からの影響も如実に反映されている。
 ロットはワーグナーに深く傾倒しており、当前奏曲においても、冒頭部分には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、中間部には『ワルキューレ』を彷彿させる箇所が幾つも登場する。ただし、ワーグナーの真似事に終わらないのはロットの才能だ。楽友協会音楽院の師であったブルックナーの影響、さらに教会オルガニストとして働いていた演奏経験も手伝って、対位法的な処理や独自の和声展開、オルガンの響きを思わせる楽器の重ね方など、ロットならではの世界がわずか8分ほどの世界に凝縮されている。
  なお翌1878年、20歳を目前に控えたロットは『交響曲第1番』の第1楽章を音楽院の作曲コンクール用に完成させるが、審査委員会の教授陣はブルックナーを除いて酷評を浴びせる。それでもロットは1880年には全曲を完成させ、ウィーン音楽界の重鎮となっていたブラームスに見せるものの、彼からも手厳しい批判を受けた結果、そのショックが引き金となって精神の闇に陥り、再起を遂げることなく4年後に息を引き取った。

〔楽器編成〕
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、弦五部

〔初演〕
2004年2月4日 ミュンスター、ヴェルナー・マリハルト指揮ユンゲス・シンフォニーオーケストラ

 
  当時のドイツ語圏における交響曲事情を考えた場合、この分野のパイオニア的存在と見なされていたルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)を崇拝するあまり、後の世代の作曲家たちが彼に匹敵する…あるいはそれを乗り越える作品をなかなか書けなかった、というエピソードがよく引き合いに出される。たしかにブラームスが交響曲第1番を完成させたのは43歳、ブルックナーも42歳だった。ロットの友人だったグスタフ・マーラー(1860-1911)も、交響曲第1番の初稿こそ29歳の折に完成させているが、その後生涯にわたって改訂作業を続けた。
  ただしロット、あるいはフランツ・シュミット(1874-1939)を見ると、上のエピソードがすべて当てはまるわけではない。何しろシュミットが『交響曲第1番』に着手したのは1896年のこと。ウィーンの楽友協会音楽院で作曲とチェロを主専攻として学んでいた彼は、ちょうどこの年に同音楽院を卒業し、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団(現在のウィーン国立歌劇場管弦楽団であり、そのメンバーが自主運営している演奏会用のオーケストラがウィーン・フィルとなる)へチェロ奏者として入団を果たす。
  こうした状況の中、シュミットは3年をかけて1899年に交響曲を完成させる。そして翌1900年、「ウィーン楽友協会作曲賞」にこの曲で応募し、1位を勝ち取った。なおこの賞は、1876年に楽友協会音楽院の卒業生向けに始まった「ベートーヴェン作曲賞」が前身となっている(1878年にはマーラーもそれに挑み、落選した)。その後、審査委員を務めていたブラームスの提唱により、1896年に大幅な組織改革を経た結果、上記の名前を戴くヨーロッパでも屈指の国際作曲賞に変容を遂げていった。
  つまり、これまた「ベートーヴェンの精神を受け継ぐ」ことを目標に据えた賞である。しかもブラームスが晩年に至るまで大きな影響力を及ぼしていたことを考えると、入賞するには、彼のライヴァルと目されていたブルックナーの影響を徹底的に排除すること…実際ブルックナーの庇護を受けていたがため、前述のロットはブラームス本人やそのシンパから拒絶されたとも言えるのだ…が必須条件であったかのようにも思いたくなる。だがこの交響曲を聴けば、19世紀後半のウィーン音楽界を二分したブラームスvs.ブルックナーの派閥争いを超克し、両者を融合させた内容であることは明らかだ。
  シュミットはオルガニストとしても活躍しており、やはりオルガニストとして高名だったブルックナーの影響を受けていた。当作品においても、第4楽章にオルガンを彷彿させる響きやコラール風の旋律〔譜例4〕が現れたり、大胆な転調を辞さなかったりする点が、顕著な例として挙げられる。いっぽうで演奏時間が40分あまり、第1楽章はバロック期のフランス風序曲を彷彿させる符点リズムを基にした序奏に続き、ソナタ形式を正確に踏襲した主部が姿を現し(〔譜例1〕は第1主題、〔譜例2〕は第2主題)、第4楽章は手の込んだ対位法と変奏曲の技術が渾然一体となっているなど、ブラームスのごとく伝統的な形式が厳格に守られている。楽器編成も、ブラームスが好んだ中編成に加えて管楽器の増強が見られる程度であって、ワーグナーやブルックナーばりの巨大な響きが目指されているわけではない。(ただし中編成とは思えぬ響きの多彩さや豊かさに溢れている点において、逆にシュミットの卓越したオーケストレーションが聴き取れるのもたしかだ。)
  シュミットは当作品に、「私は歌う、梢に住む鳥のごとく」という一文を寄せている。まさにその言葉のごとく、三部形式からなる第2楽章は、緩やかなテンポの中に巧みな転調がおこなわれ、刻々と音楽が表情を変えてゆく。さらに3楽章では、突如フラッシュバックのごとく出現するトリオの部分に、オーストリアの民族舞曲であるレントラー風のメロディ〔譜例3〕が用いられるといった具合に、フランツ・シューベルト(1797-1828)の流れを汲むオーストリア縁の作曲家ならではの姿勢を窺い知ることができる。またそうであったからこそ、この交響曲は高い評価を得、その後シュミットは演奏活動のかたわら、気鋭の作曲家としても目覚しい活躍を始めることとなった。

〔楽器編成〕
フルート3(3rdフルートはピッコロ持ち替え)、オーボエ2(2ndオーボエはイングリッシュホルン持ち替え)、クラリネット2、ファゴット3(3rdファゴットはコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1、ティンパニ、弦5部

〔初演〕
1902年1月25日 ウィーン、作曲者の指揮 ウィーン・コンツェルトフェライン

 
  ブラームスの創作過程に着目すると、彼にとって協奏曲を手がけることは、交響曲を手がけるのに匹敵する作業だったといってよい。1857年に完成された『ピアノ協奏曲第1番』については、作曲の途中で交響曲に書き換えるという構想も一時期浮上した。あるいは1887年に作曲された『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』も、元々は『交響曲第4番』に続く新作の交響曲を書くというアイディアが変化を遂げたものと言われている。
 このように、協奏曲と交響曲はブラームスにとって切っても切れない関係にあった。さらに言えば彼は、ソリストの超絶技巧を顕示することが主眼に置かれてきた協奏曲に、交響曲の要素を融合させることを目指そうとした。その典型ともいえるのが、1878年作曲の『ヴァイオリン協奏曲』と、同年から1881年にかけて書かれた『ピアノ協奏曲第2番』。当時のブラームスは、長年の懸案である交響曲第1番を完成し、そのプレッシャーから解き放たれるかのように次々と新作を放っていた。中でもピアノ協奏曲第2番は、ピアノ協奏曲第1番から20年以上もの歳月を経た後、彼が再び手がけたジャンルとして、既に初演前から楽壇の大きな注目を集めた。
  初演は、ピアノの名手としても知られたブラーム本人のピアノ独奏によっておこなわれ、高い賞賛を得ることとなる。何しろ彼が目指した「交響的協奏曲」とも呼べる特徴が余すところなく表現されており、自身非常に優れたピアニストであったにもかかわらず…いやそうであるからこそ…、独奏とオーケストラとが極限まで緊密に結び合う。しかも演奏時間は約50分、3楽章構成が通例である協奏曲の習慣を打ち破り、交響曲を彷彿させる4楽章構成がとられる破格のスケールだ。また、トランペットとティンパニは最初の2つの楽章にしか用いられないという異例のオーケストレーションが施され、ここからもオーケストラ・パートをブラームスがきわめて重要視していたことがうかがえる。
  いずれにせよワーグナーやブルックナーとの比較において、信奉者からも反対者からも「保守」のレッテルを貼られることの多かったブラームスが実はけっしてそうではなかったことを、当作品は随所で物語っている。音楽の形式を破壊するのではなく、それを極限まで深めた結果、彼は彼自身にしか不可能な新しい世界を作り上げた。そしてこのような姿勢に、後輩格にあたるロットもシュミットも…個人的な好悪を超えて…計り知れない影響を受け、自らの創作活動の糧としていったのである。

〔楽器編成〕
独奏ピアノ、フルート2(1stフルートはピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、ティンパニ、弦5部

〔初演〕
1881年11月9日 ブダペスト、作曲者のピアノ独奏 アレクサンダー・エルケル指揮 ブダペスト・フィルハーモニー
 
   
   譜例作成:森 洋久
 
  (C)小宮 正安 (ヨーロッパ文化史研究家・横浜国立大学准教授) (無断転載を禁じる)

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