大阪交響楽団 2014年度 定期演奏会 曲目解説

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第189回 定期演奏会   10月16日(木)
川瀬 賢太郎
田村 響

シェイクスピア生誕450年記念【ロメオとジュリエット】
 
≪ロマンティック・ロシア≫
 
2014年10月16日(木)19時00分開演 
 
 
 音楽史の年表を作成してみると、J.S.バッハやヘンデルなどが活躍したバロック音楽期、さらにはハイドンやモーツァルトからベートーヴェンまでつながる古典派音楽期まで、ロシアからは国際的なネーム・ヴァリューのある作曲家が登場していないことに気がつくだろう。もちろん作曲家がまったくいなかったわけではない(詳しい方であれば、ボルトニャンスキーやアリャビエフあたりの名前が挙がるはずだ)。しかしながら少なくとも19世紀の初頭まで、ロシアからは私たちがよく知る作曲家が生まれることはなかった。それは近代ロシア音楽の開祖的な存在として1830年代に出現する、ミハイル・グリンカ(1804-1857)を待たなくてはならない。
 本日お聴きいただく3人の作曲家は、ロシアに正式な音楽教育が定着した時期(19世紀後半~20世紀初頭)に学び、国内外で作品が評価されたというスターたちである。チャイコフスキーは当時の首都であるサンクトペテルブルクで学び、モスクワに新しい音楽院が開設された際には20代中盤でありながら教師として迎えられた。そのチャイコフスキーに才能を認められたのが、孫弟子となったラフマニノフ(チャイコフスキーの弟子であるアレンスキーに師事)。そしてラフマニノフが祖国を後にしてから台頭した“ソヴィエトの作曲家”であるショスタコーヴィチ。3人の作曲家はそれぞれ約30歳の年齢差があるため、親子三代の関係だと言える。その間ロシアからは、まるでそれ以前の穴を埋めるような勢いで多くの作曲家や名作が生まれ、クラシック音楽の世界に一大勢力を築き上げていく。
 
 
 チャイコフスキー
 幻想的序曲「ロメオとジュリエット」
 
 グリンカが蒔いたロシア音楽の種は息子の世代となるミリー・バラキレフ(1837-1910)が育て、彼のもとにはムソルグスキーやリムスキー=コルサコフら、有能な若者が集まってくる。このグループが後に「バラキレフ・グループ」「力強い一団」と称する結社となり(後にロシア国外では「五人組」と呼ばれた)、彼らは「真のロシア的な音楽」を作り上げようと奮闘した。それに対してピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893)や、師であるアントン・ルビンシテインらはドイツ音楽の伝統を受け継いだ保守本流であり、バラキレフのグループとは敵対関係となる。しかしバラキレフはチャイコフスキーの音楽性に注目。一時期は「力強い一団」から“仲間入り”を促されたことさえあったほど、交流を深めた。
 ちょうどそうした時期(1869年)に、チャイコフスキーはシェイクスピアの『ロメオとジュリエット』をモティーフとした作品を書き始め、作曲の過程でバラキレフにも意見を求めている。先輩作曲家のアドバイスは時にありがたく、時に面倒だったようだが(今風に言うなら「うざい」と感じたこともあったようだ)、完成したそのオーケストラ作品は翌1870年に盟友ニコライ・ルビンシテインの指揮で初演され、好評を得た。しかしチャイコフスキー自身はその出来映えに満足しておらず、その後に楽譜へ手を加えて改稿。本日お聴きいただくスコアは、さらに10年後の1880年に再改稿したものであり「第3稿」にあたる。
 曲は『ロメオとジュリエット』にインスパイアされたものだが、ストーリーをそのまま追ったわけではなく、チャイコフスキーがこの作品から受けた印象と感情を音楽化したと言えるだろう。それは言うまでもなく物語全体を支配する悲哀であり、恋人たちの純粋な愛に対する憧れであり、理不尽な争いに対する怒りなどだった。
 曲はまず静かに幕を開け、教会に響く聖歌のように厳粛な「序奏」が演奏される。『ロメオとジュリエット』を知る方であれば、主人公2人の理解者であるローレンス神父の慈愛が思い出されるだろう(この序奏部分は初稿とまったく違っている)。徐々に緊張感が高まり、曲調が激しくなるとモンタギューとキャピュレットの両家による凄惨な争いが描かれ、そこにはチャイコフスキー自身の悲しみと怒りも内包されている。その激しい音楽が頂点に達するとヴィオラやコールアングレなどが、恋人たちの愛を表すロマンティックな主題を演奏。純粋な愛は大きく燃え上がるものの、再び争いの音楽が戻ってきて、2人の仲を引き裂いてしまう。しかし、それにも負けない愛の力。そして2人の魂が両家の争いを浄化し、天国へ召されていくようにフィナーレを迎える。
 
 
 ショスタコーヴィチ
 ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102
 
 20世紀に存在したソヴィエト社会主義共和国連邦という国家は、歴史の中にさまざまな爪痕を残して1991年に消滅した。しかし音楽史においてはドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)という類い希な作曲家を世に送り出し、図らずもその音楽が芸術と政治のシビアな関係を証明するシンボルになっていることは、特筆すべきだろう。彼の作品を語る際、ソヴィエト国家や社会主義体制による抑圧(政治的コントロール)を無視するわけにはいかない。ところがそれゆえに皮肉にも、苦悩しながら傑作を生み出したヒーローが生まれ、21世紀になってもその偉業は讃えられ続けているのだ。
 しかしながら、彼の作品すべてが政治的な側面をもっているわけではない。たとえば1957年に作曲されたピアノ協奏曲第2番はピアノと戯れる喜びに満ちており、純真な子供の心で作曲したと言われれば信用してしまいそうだ。実際、この作品は当時まだ10代後半だった息子のマキシムに献呈され、彼が初演のピアノを演奏。未来ある息子を想定したと同時に、自らも若い頃に「第1回ショパン国際ピアノ・コンクール」(1927年)へ出場するほどの腕前を持っていたショスタコーヴィチが、息子に昔の自分を重ね合わせて作曲した可能性も否定できないだろう。
 ただし一方で、この協奏曲が「1905年」というニックネームを付した交響曲第11番と並行して作曲されている、という事実もある。1905年は最初のロシア革命が勃発した年であり、彼は交響曲の中で人民たちによる偉業を讃えているのだ(いや、讃えざるを得なかったのだろう)。ピアノ協奏曲第2番を支配する屈託のない明るさや無邪気さは、もしかすると表面的に国家を讃えた交響曲の反動であり、自身のストレスを解消するための役割を担っていたとは考えられないだろうか。そうした裏読みさえもしたくなるほど、この曲はあっけらかんとした曲調で私たちに訴えかけてくるのだ。
 第1楽章(ヘ長調、ソナタ形式)は、木管楽器による行進曲調の序奏で軽快に幕を開け、ピアノが第1主題を提示。さらにはピアノがリーダーとなり、テンポが速くせわしない行進が続いていく。やや陰りのある第2主題もピアノが提示。2つの主題を軸にしながら、音楽はひたすら前進を続ける。
 第2楽章(変ホ長調、複合的な二部形式)は、3拍子のサラバンド風。静謐でどこか夢見心地の主題が提示され、ピアノがベートーヴェンの「月光」ソナタを思わせるような左手の音型で、新しい音楽を作り上げていく。消え入るようにこの楽章を閉じると、そのまま第3楽章へ。
 第3楽章(ヘ長調、ロンド形式)は、活気のあるディヴェルティメント風の音楽。主要主題はピアノが提示し、音楽が激しくなると8分の7拍子による第2の主題がオーケストラによって演奏される。その後はピアノ学習者におなじみの「ハノン練習曲」から引用されたパッセージもあり、ジョーク好きだったというショスタコーヴィチの顔がチラリと見えるような気も……。
 
 
 ラフマニノフ
 交響曲第2番 ホ短調 作品27
 
 作曲家としてだけではなく、卓越した名ピアニストとして活躍したセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)。その腕前と音楽性は残されている膨大な録音によって証明され、交響曲第3番ほか一部の作品を指揮した録音も残されている。彼の音楽的な才能は幼少期より発揮されたが、生涯最初のピアノ教師となったのは母リュボーフィだった。彼女はチャイコフスキーの師でもあるアントン・ルビンシテインに師事しており、その人脈からセルゲイ少年はさらに恵まれた教育を享受。首都サンクトペテルブルク、そしてモスクワへと移住しながらますます才能を研磨していく。彼に目をかけた人物の中には、モスクワ音楽院および音楽界で輝くような存在となっていたチャイコフスキーもいた。図らずも死の前年となった1892年、チャイコフスキーは期待の作曲家としてモスクワ音楽院を卒業したばかりのラフマニノフを挙げ、音楽界に注目を促している。こ
うしたことも手伝ってか、直接の師弟関係にはなかったものの、ラフマニノフはチャイコフスキーの音楽に強烈なシンパシーを覚え、そこにあるロシアの精神を引き継いだ。私たちも、そうした流れをくみ取りながらラフマニノフの音楽を味わってもいいだろう。
 ピアニストとして、作曲家として注目を集めた20代のラフマニノフだったが、24歳の誕生日を迎える直前の1897年3月、有名な挫折を経験する。自信をもって送り出した交響曲第1番が予想外の不評を買い、その後の約3年間、彼は作曲活動から遠ざかった。その苦境から脱したきっかけとなったのは、これもまた有名なピアノ協奏曲第2番の成功(1901年10月にモスクワで初演)。ラフマニノフは再び旺盛な創作意欲を取り戻し、1902年4月には幼なじみと結婚。幸福な家庭を得て豊穣の時代を迎えている。作曲活動と並行し、彼は1904年からモスクワのボリショイ劇場で副指揮者を務めるなど、ロシア音楽界に大きな影響を与える存在となった。恩人であるチャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』や『スペードの女王』なども手掛け、作品の評価をますます高めている。
 しかし同時期、ロシアは歴史的な局面を迎えていた。1905年1月には政策に対して不満を訴えた労働者のデモに政府側の軍隊が発砲するという「血の日曜日事件」が勃発し、小規模ながら革命に至る。こうした情勢もラフマニノフに不安を与えたのだろう。彼はボリショイ劇場のポストを辞任して、1906年の秋からドイツのドレスデンへと生活拠点を移し、落ち着いた環境で作曲を続けた。大作である交響曲第2番は、まさにこの時期の産物である。演奏時間が60分になろうとする長大な作品ながら(その長大さゆえ、第4楽章などを大幅に割愛して演奏されていた時期も長かった)、ソナタ形式や三部形式といった伝統的な書法を守っており、このあたりはチャイコフスキーたちから受け継いだ保守路線を忘れていない。曲は1908年1月にサンクトペテルブルクにおいて、ラフマニノフ自身の指揮により初演されている。
 第1楽章(ホ短調、長大な序奏付きのソナタ形式)は、独特のメランコリーをたたえた音楽で幕を開け、聴き手はこの部分ですでにラフマニノフの世界へと誘われる。ソナタ形式の主部はその雰囲気を引き継いだまま、ややテンポを速めて展開。ヴァイオリンが第1主題を演奏して音楽が熱を帯びていく。第2主題は雰囲気が大きく変わり、木管楽器と弦楽が“ちょっと立ち止まって幸福を味わうような”音楽を演奏する。
 第2楽章(イ短調、複合的な三部形式)は、スケルツォ。ホルンの咆哮による主要主題で幕を開け(これはラフマニノフが自作へ頻繁に導入していた聖歌「怒りの日」から作られている)、第1楽章の雰囲気が帰ってきたような麗しい音楽も挿入。トリオ(中間部)はシンバル等の一撃で始まる、やや不安げな行進曲調の音楽。
 第3楽章(イ長調、三部形式)は、“ラフマニノフ節”と呼んでもいい抒情的なアダージョ。クラリネット・ソロにより息の長い主要主題が演奏される。映画やテレビ・ドラマなどにも使用されるなど、聴く者の心を打つ音楽だ。
 第4楽章(ホ長調、ソナタ形式)は、フィナーレにふさわしいにぎやかな第1主題で幕を開け、流麗な第2主題は弦楽が中心となって演奏される。その第2主題は楽章の最後になると壮大なアーチとなって奏でられ(ピアノ協奏曲第2番などと同じ構成だ)、まるで人生における勝利を祝うように全曲のフィナーレを迎える。
 
  
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