大阪交響楽団 2014年度 定期演奏会 曲目解説

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第186回 定期演奏会   5月30日(金)
児玉 宏

シェイクスピア生誕450年記念【ハムレット】
≪忘れられた北欧の作曲家たち≫
 
 
2014年5月30日(金)19時00分開演  
 
 
 レコード・コレクターでコンサート・ゴーアーの人なら、きっと自分の好きな曲で、CDでは耳にできても実演ではなかなか接する機会のないものが必ず数曲はあるのではないか。室内楽編成までなら私が主宰する「知られざる作品を広める会」のコンサートでも演奏可能だがオーケストラ曲は経済的に無理だ。そんな私にとって懸案の曲はイッポリトフ=イワーノフの「コーカサスの風景」第1組曲、モシュコフスキとパデレフスキのピアノ協奏曲、そして何といってもベルワルドの「サンフォニー・サンギュリエール(風変りな交響曲)」だ。そしてとうとう夢が叶うのだ!児玉宏氏と大阪交響楽団には心より感謝したい。私の個人的な夢は措くとしても、本日は実に画期的な19世紀スカンディナヴィア音楽プロだ。
 19世紀はドイツ語圏を中心に楽譜出版・教育・興行の3点セットで音楽が急速に産業発展を遂げた時代だった。歴史的に見てもスカンディナヴィア3国(ノルウェー、デンマーク、スウェーデン)の音楽の歴史は地続きのドイツ語圏地域との関係が密接だが、特にこの時代はその影響が著しい。スヴェンセン、グリーグをはじめ多くの音楽家たちがライプツィヒ音楽院に留学し、またゲーゼ、ベルワルドらは自らの活躍の場を当時の先進国であったドイツ語圏地域に求めている。しかし同時にそれぞれの作曲家個人、国のアイデンティティをいかに作品に反映させるかに腐心するかというロマン派時代に顕著な創作態度がここでもそれぞれの作品にしっかりと刻印されている。
 
ゲーゼ
演奏会用序曲《ハムレット》作品37
 
 1980年代以前の日本で何らかの編集作業でスカンディナヴィア3カ国の作曲家たちに関わった人なら容易に理解できるだろうが、彼らの名前をどうカタカナ表記するかは常に多くの問題を含んでいた。本日の作曲家の一人である「Gade」の名をどう表記するか・・・「ガーデ」、「ガーゼ」、「ゲーダ」、「ゲーゼ」と様々なカタカナ表記が併存していた。念願かなって1991年にコペンハーゲンで現地取材した私の耳には大阪外国語大学教授岡田令子氏が推奨されておられた「ゲーダ」が最も実情に合っているように思えたが、ここではニューグローヴ音楽事典日本版(以下NGJと略記)などで採用され、今日一般的な「ゲーゼ」で表記する。
 楽器職人の家に生まれ幼い頃から楽才を示したニルス・ヴィルヘルム・ゲーゼ(1817-90)は15歳から正式な音楽教育を受けるようになると急速に才能が開花。16歳にしてヴァイオリニストとしてデビューし、さらに24歳の時には演奏会用序曲《オシアンの余韻》op.1がコペンハーゲン音楽協会主催の作曲コンクールで一等賞を受賞している。しかし満を持して作曲した「交響曲第1番ハ短調」の初演を同協会が拒否すると彼はそのスコアをライプツィヒのメンデルスゾーンに送付。結果的にこの行動がゲーゼを成功へと導いた。作品を気に入ったメンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団で取り上げ大成功を収めたからだ。これを機にゲーゼは同オーケストラの補助指揮者およびライプツィヒ音楽院の教師として迎えられ、さらにメンデルスゾーンの死後は首席指揮者に任ぜられた。しかしながら1848年のプロイセン=デンマーク戦争のため帰国を余儀なくされてしまう。祖国に戻ったゲーゼはコペンハーゲンの王立音楽アカデミーの共同設立者になり、またライプツィヒでの経験を生かし同地の音楽協会の管弦楽団と合唱団のレベル・アップに貢献した。その生涯に170を超える作品を遺したゲーゼだが8つの交響曲および8つの序曲をはじめとする管弦楽作品も傑作と呼ぶに相応しい。
 1861年に書かれた演奏会用序曲《ハムレット》は、ゲーゼの若い頃からの友人で劇場監督のフレズレク・フートに献呈された。彼は役者としても活躍しデンマーク王室を舞台としたシェイクスピアの悲劇「ハムレット」を当たり役としていた。曲はハ短調で導入部(アンダンテ 4/4拍子)~主部(アレグロ・コン・ フォーコ 2/2拍子)~終結部(葬送行進曲:アンダンテ・レント4/4拍子)の3つの部分から成る。導入部の冒頭に弱々しく奏される葬送行進曲が激しく目まぐるしく変化するソナタ形式の主部を経て再現し、曲を締めくくる。
 
ベルワルド
交響曲 第3番 ハ長調
《サンフォニー・サンギュリエール(風変わりな交響曲)》
 
 作曲家は霞を食って生きている訳ではない・・・そんな当たり前の厳然たる事実を19世紀スウェーデンの作曲家フランツ・ベルワルド(NGJはフランス・アドルフ・ベールヴァルドと表記)の生涯は改めて思い起こさせる。ストックホルム宮廷楽団のヴァイオリン奏者を父として1796年に生まれた彼は幼い頃からヴァイオリンを学び、16歳で宮廷楽団に入団。やがて作曲も手掛け、弦楽四重奏曲、ヴァイオリン協奏曲、七重奏曲などを完成させた。1829年に念願かなってベルリンに出立。同地でオペラの創作を手掛けたが認められず、作曲を一旦諦め、1835年からは整形治療院を開設し大成功を収めた。1841年にはウィーンに移り自作品の演奏会を開催し好評を博す。気を良くした彼は翌年帰国し、それからの3年間に4曲の交響曲を書いたの
だった。けれども作曲者の生前に演奏されたのは「第1番ト短調《セリウーズ》(第1稿)」のみ。1846年にベルワルドは再び成功を夢見てパリを経由してウィーンへ出かけた。パリではD.F.E.オベールから交響曲第4番変ホ長調《ナイーヴ》の初演の約束を取り付けたものの1848年の二月革命による混乱のためこれは実現しなかった。結局ザルツブルク・モーツァルテウムの会員に推挙されたことだけが旅行の成果となる。1849年に再び帰国したベルワルドは音楽家として生計を立てるべく仕事を探したが無駄だった。そんな時に救ってくれたのは彼と交流のあったストックホルムの商人たちが組織していたアマチュアの室内楽愛好家たち。その中の一人、ルードヴィグ・ペトレの紹介で翌年秋から1859年春までの間ベルワルドは北部スウェーデンのサンデーでガラス工場の支配人となった。ここでも商才を発揮し成功を収める一方で、彼は長い冬の間はストックホルムで創作に励み、また商売の関係でドイツを訪れた際には様々な楽譜出版社と接触する機会を持つことが出来た。こうして出版された彼の室内楽はリストやハンス・フォン・ビューローからも高く評価された。
 1860年になり知り合いの何人かがスウェーデン楽壇の要職に就くと、ベルワルドもコンサート協会の会員に選ばれ、1862年には歌劇《エストレッラとソリア》を上演され、それなりの成功を収めた。そして1866~67年にかけてスウェーデン王国北極星勲章を授与され、ストックホルム音楽院で作曲を教える仕事を得た。
 ところがこうしたささやかな成功も束の間。1868年4月3日、肺炎のために世を去った。そして未出版の作品を含めその自筆譜は王立音楽アカデミーに保管されることに。やがて数十年の歳月が経ち、スウェーデンでも常設のオーケストラが定期的な公演を行うような時代になり、自国が誇るべき交響曲作曲家としてベルワルドの作品にもようやくスポットライトが当たるようになった。この「風変わりな交響曲」は作曲から半世紀以上を経た1905年に当時のスウェーデンを代表する作曲家の一人トゥール・アウリーンの指揮によりようやく初演された。そしてその後はベルワルドの代表作としてスウェーデンを中心に北欧ではしばしば演奏されるようになった。またマン、ブローマン、マルケヴィッチ、シュミット=イッセルシュテット、エールリンクらによる録音も次々登場し、この名作を世界に広めるのに貢献した。
 この交響曲に付けられた「サンギュリエール(風変わりな)」という形容詞は何を意味するのか? 様々な文献でよく指摘されているのは第2楽章の中間部にスケルツォ楽章を内包しているという点。しかしながらそれ以外にも唐突に現れる刺激的な強奏、移ろいやすい調性感、ハ長調の曲なのに終楽章がハ短調で始まる楽章構成なども当時としては「風変り」に感じられたのではないだろうか・・・
 
第1楽章 アレグロ・フォコーソ ハ長調 4/4拍子 自由なソナタ形式。冒頭で4度の下降(ド-ソ)を繰り返すモチーフがチェロとコントラバスに提示され、それがハ長調各音で順々に繰り返されて行く。まるで深い霧が徐々に晴れていくかのような風情だ。そして頂点に達したところで第1主題部の中心となるメロディアスな主題が第1ヴァイオリンに現れる。その後も冒頭の4度の下降を繰り返すモチーフが顔を出し全体に統一感を与える。第2主題部はト長調で木管楽器と弦がやりとりする軽妙な主題に続き、やはり第1ヴァイオリンが歌うテーマが続く。展開部はもっぱら第1主題部の素材が取り扱われ、そのためか再現部は第2主題部、第1主題部の順で登場する。
 
第2楽章 アダージョ ト長調 2/4拍子~スケルツォ:アレグロ・アッサイ 6/8拍子 三部形式。静かな夜想曲の風情でアダージョが始まるが調性は安定せず謎めいた雰囲気を醸しだす(A)。後半はティンパニが弱くトリルし続けるのを背景に、内に秘めた感情が表出するような主題が第1ヴァイオリン、次いでフルートに現れる(B)。fff でティンパニが一撃を加え軽快な中間部のスケルツォになる。そしてひと段落したところでアダージョ部が(B)(A)の順に再現される。
 
第3楽章 フィナーレ:プレスト ハ短調 2/2拍子 ロンド形式。いきなりハ短調で力強く主要主題(R)が奏される。次いで第1ヴァイオリンに不安気な息の長いへ短調の主題(A)が現れる。それらが順番を入れ替え繰り返され、一段落したところで変ホ長調の主題(B)がやはり第1ヴァイオリンに現れ、やがて木管楽器群に同じく変ホ長調の主題(C)が表れるがいまひとつ安定しない。そうこうするうちに第2楽章アダージョ後半の主題が登場する。Bに続いて再びRが戻り、Aが続き、最後にCが最初はハ短調で、繰り返しではハ長調で輝かしく響き渡る。
 
  まるでベルワルド本人の波瀾万丈な生涯を象徴するかのような交響曲だ。ニールセンはスウェーデンの作曲家ステンハンマルに宛てた書簡の中でこう記している。「メディアであれ、お金であれ、権力であれ、良い芸術にダメージを与えることも、益することも出来ない。しかしいつの時代にもその作品とともに少しずつ前進し、創造し、立ち上がる、飾らない、慎ましい芸術家はいるものだ。スウェーデンにはそうした最も優れた例がいる。ベルワルドだ。」
 
 
ニールセン
交響曲 第1番 ト短調 作品7
 
 デンマークの国民的な作曲家カール・ニールセン(NGJはカール・アウグスト・ニルセンと表記)は幼少期の音楽体験から大きな影響を受けたことを折に触れ語っている。それは一体どんなものだったのか・・・ニールセンは1865年フュン島(デンマーク)の村ナアア=ルネルセに生まれた。父親はペンキ職人で村の音楽師でもありヴァイオリンを担当するとともにコルネットも演奏し、島の祭りのたびに呼ばれて演奏していたという。母も歌うのが好きだった。こうして幼い頃から音楽に親しんでいたが麻疹に罹った6歳の頃母親が玩具の代わりに3/4サイズのヴァイオリンを与えたのがきっかけでこの楽器になじみ、父から教えを受けるようになった。やがて父の楽隊を手伝うようになり、トランペットも習得。14歳でオーデンセの第16歩兵大隊の連隊付音楽家に選ばれ、そこで現場経験を積んでいった。隊には老練な音楽家もおり、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといった古典に接することが出来た。やがて自らも弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、金管四重奏曲などを書き、演奏するようになる。1883年、18歳のニールセンは一大決心をし、コペンハーゲン音楽院院長だったゲーゼを訪ね、自作の弦楽四重奏曲を見て貰ったのだった。ゲーゼは形式のセンスが良いので、ヴァイオリンが奏けるなら音楽院に入れるだろうと励ました。ニールセンは年末に試験を受け、翌年の元旦に学費免除で入学を認められた。同音楽院で主にヴァイオリンとピアノを3年間学んだ後も、ヴァイオリンを教えるようになり、弦楽四重奏団員をしながら作曲理論を学び続けた。こうして弦楽五重奏曲や弦楽オーケストラのための「小組曲作品1」が書かれ成功を収め、1889年には王立礼拝堂管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者の職を得ることが出来た。その前後からスケッチが始まり、2年後に本格的に着手、翌1892年に完成されたのが交響曲第1番。1894年3月14日にコペンハーゲンのオッドフェロー・パレスでの王立礼拝堂管弦楽団のコンサートで早くからニールセンの才能を認めていたヨハン・スヴェンセンの指揮により初演された。デンマーク王室一家列席のもとでの演奏は温かく迎えられ、ニールセンは第2ヴァイオリン席から拍手に応えたという。その後も何度か演奏され、彼の名前を世に知らしめるきっかけとなった。曲は1891年に旅行先のパリで知り合ったデンマークの彫刻家で、彼の妻となったアネ・マリーイ・ カール・ニールセン(旧姓:ブローダーセン)に献呈されている。
 
第1楽章 アレグロ・オルゴリオーゾ ト短調 2/2拍子。ソナタ形式。「オルゴリオーゾ(誇らし気に)」という標語通りに力強くリズミカルな第1主題が提示されて曲は始まる。第2主題は幾分テンポを落とし(ポーコ・メノ・モッソ)変ニ長調でオーボエに現れる。展開部は pp から fff に向かい二つの主題を巧みに展開しつつ進み、頂点に達したところで第1主題が再現する。そして第2主題が今度は変ロ長調で現れる。
最後はアレグロ・モルトに速度を速め、ppp から fffに盛り上がって終わる。
 
第2楽章 アンダンテ ト長調 4/4拍子。三部形式。まず第1ヴァイオリンに穏やかな主題が出て管楽器が加わり活気づいて行く。中間部は12/8拍子に転じ、3連音符が印象的なト短調の主題が出て、次第に感情が昂って行く。再び4/4拍子に戻りホルンとファゴットに最初の穏やかな主題が再登場する。
 
第3楽章 アレグロ・コーモド 変ホ長調 6/4拍子。スケルツォ楽章。冒頭のスケルツォ部はファゴットのモチーフに導かれて、のどかな主題がフルート、次いで第1ヴァイオリンに引き継がれる。やがてハ短調に転じ第1ヴァイオリンにしんみりした主題が登場。そして力強い付点リズムによるト短調の主題が第1ヴァイオリンに出てこの部分を締めくくる。中間部はテンポを落としアンダンテ・ソステヌートでホルンとトロンボーンに主題が出るが、これはスケルツォ部締めくくりの主題が変形されたもの。やがて次第に加速し、スケルツォ部の素材が戻り展開部のように扱われる。その後に中間部が再帰した後、アレグロ・アッサイで締めくくる。
 
第4楽章 アレグロ・コン・フォーコ ト短調 2/2拍子。ソナタ形式。「コン・フォーコ(火のように)」の標語通りに力強い第1主題が第1ヴァイオリンに現れる。やがて木管楽器群と弦楽器群の対話が、更には第1ヴァイオリンが、次第に変ロ長調に収束する第2主題群を形作る。展開部はこれらの素材が激しく 転調する中で扱われ、やがて第1主題がト短調で戻り再現部に突入する。そして曲の冒頭から潜在意識下に植え付けられていたハ長調が勝利するアレグロ・モルト(12/4拍子)の終結部で様々な主題が融合して幕を閉じる。
 
 
 (C)  谷戸 基岩 (音楽評論家、「知られざる作品を広める会」代表)       
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