大阪交響楽団 2013年度 定期演奏会 曲目解説

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2013年度 定期演奏会 曲目解説

 
 
第176回 定期演奏会   5月17日(金)
寺岡 清高

≪マーラーのライバル“級友 ハンス・ロット”≫曲目解説
2013年5月17日(金)19時00分開演
 

 「夭折の天才」という言葉がある。さしずめロットも、それに充分すぎるほど当てはまる人物だ。22歳で精神の闇に陥る前のわずか数年間のうち、管弦楽曲、室内楽曲、歌曲、ピアノ曲等幅広いレパートリーを中心に、現存している上演可能な作品のほとんどを生き急ぐかのように書き上げた。しかも実現こそしなかったが、ロットはオペラの創作も考えていた。その証拠の一つが、『〈ジュリアス・シーザー〉への前奏曲』である。
 ロットの生まれ育ったウィーンは、宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)に代表されるように、ヨーロッパでも有数のオペラの盛んな都市だった。またロットの場合は、両親ともに俳優だった(ただしロットの父親は既に別の女性と結婚しており、ロットの母親とは愛人関係だったため、ロット自身も長年私生児としての扱いを受けることになる)。そのため、劇場への関心は人一倍強かったのだろう。『ハムレット』や『ヘルマンの戦い』といった戯曲に触発されて、前奏曲やオペラを完成させる計画を抱いていた。
 当作品は1877年に書かれているが、当時ウィーンではシェークスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』が人気の演目であり、ロットもそれに触発されたにちがいない。曲の終わり方を聴くと、これがオペラか劇附随音楽の幕開けを飾るものとして意図されたことが分かる。テューバを含む比較的大きな編成が要求されているのも、劇場のオーケストラを想定してのことだろう。また大規模なオーケストレーションという点からいえば、当時の若手音楽家たちを魅了していたワーグナーからの影響も色濃く反映されている。
 じっさいロットはワーグナーに深く傾倒しており、『〈ジュリアス・シーザー〉への前奏曲』においても、冒頭部分には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、中間部には『ワルキューレ』を彷彿させる箇所が幾つも登場する。だが、ワーグナーの真似事に終わらないのはロットの才能だ。音楽院の師であったブルックナーの影響、また教会オルガニストとして働いていた演奏経験も手伝い、対位法的な処理や独自の和声展開、オルガンの響きを思わせる楽器の重ね方など、ロットならではの世界がわずか8分ほどの世界に凝縮されている。そして特に注目したいのが、第10小節目で出現し、全曲の至るところに現れる動機。これは、程なくしてロットが着手することとなる交響曲第1番の第1楽章冒頭に現れる印象深い旋律(譜例1a)へと結実していったものである。

 この作品に先立つこと1年前の1876年に作られたのが、『管弦楽のための前奏曲 ホ長調』である。おそらくはロットが完成した最初の管弦楽曲であって、4分足らずの小曲だ。オーケストラの編成についても通常サイズの大きさで書かれており、そうした意味では習作としての性格が強いかもしれない。だが穏やかな曲想の中に、独奏トランペットが天からの啓示のように響いたり、突如予測不可能な方向に曲が展開して行ったりと、ロット特有の音楽世界の片鱗を充分にうかがえる内容となっている。なお「前奏曲」と銘打たれてはいるものの、これはあるオペラや劇に先立って演奏されることが意図されているのではなく、「小品」といった意味合いで用いられていると考えられる。
 上の曲と同じホ長調に基づき、1878年に書かれたのが『管弦楽のための組曲 ホ長調』だ。(ロットは『交響曲第1番』もホ長調で書いており、この調性をとりわけ好んでいたようである。ホ長調とは伝統的に厳粛さや超越性を描く際に用いられる調性だった。)「組曲」を謳うにしては2つの楽章しかないという異例の構成だが、元々は単一の曲として構想された後、2つの楽章に分けられたという経緯がある。
 1878年は、ロットがウィーン楽友協会音楽院を卒業した年。実はこの作品も、卒業審査用の作品として書かれた。なお彼は同時期に卒業作曲コンクールに応募するべく別の曲の作曲にも取り組んでおり、こちらは『交響曲第1番』の第1楽章だった。

 だがこの『交響曲第1番 ホ長調』は、紆余曲折を経ることとなる。卒業作曲コンクールに提出された第1楽章は、ブルックナーを除き、審査員を務めていた音楽院教授たちの冷笑を買い落選した。この事態を見たブルックナーは、大人しい彼にしては珍しく強い口調で音楽院の同僚たちに言ったという。「皆さん、どうか笑わないでいただきたい。あなた方はやがてこの若者から、もっと偉大なものを聴くことになるのだから」。
 いずれにせよ、落選がロットに与えた衝撃は相当のものだったようだ。(くわえて父親の死や、それにともなう経済状況の悪化…そのためピアリスト修道院附属教会のオルガニストとなり糊口をしのぐも、僧侶たちとの人間関係のトラブルでやがてその職を辞めざるをえなくなる…といった具合に、精神的ダメージの大きな出来事が数年来彼を次々と見舞っていた。)にもかかわらず、ロットは第2楽章以降の作曲をこの年の秋から続行。1年半あまりの歳月を経て、『交響曲第1番』の全曲は1880年に完成した。
 ロットはこの新作交響曲を、2つのコンクールに提出しようと考えた。1つはハプスブルク帝国文部省が主催する芸術家奨学金コンクール、もう1つはウィーン楽友協会が主催するベートーヴェン作曲コンクールである。そしてこれらのコンクールの審査員を務めていたのが、ウィーン音楽界の重鎮として君臨するようになっていたブラームスだった。なお当時のウィーンでは事あるごとに保守派のブラームスvs.革新派のブルックナー(さらにブルックナーが崇拝していたワーグナー)の対立が喧伝されていたが、ロットはワーグナーやブルックナーに共感するいっぽう、ブラームスからも多大な影響を受けていた。
 そこでロットはブラームスを訪ね、『交響曲第1番』がコンクールに通るよう口添えを頼むのだが、ブラームスの評価はロットの期待とは裏腹に非常に手厳しいものだった。将来への希望を絶たれたと思い込んだロットは、生活の糧を得るべくアルザス地方の小都市ミュールーズの合唱指揮者の仕事を不本意ながら引き受けるものの、ウィーンからこの街に向けて出発した列車の中で発狂。ブラームスが客車に爆弾を仕掛けたという妄想に捕らわれ、そのまま精神病院送りとなってしまった…。
 だが交響曲第1番はベートーヴェン作曲コンクールでの受賞こそ逃したものの、芸術家奨学金コンクールには入選を果たしていた。コンクールには、ブラームスの熱心な擁護者であると同時にブルックナーの批判者であった音楽評論家のハンスリックも審査委員として参加していたのだが、彼は次のようなコメントを残している。「作品を見れば分かる通り、彼の才能は未だ明晰とは言い難いものの、鮮烈に訴えかけてくるものを持っている。その若さや真摯な作曲ぶりから、これから先、優れた働きを期待できるだろう。」
 たしかにオーケストラの編成を見ても、ワーグナーやブルックナーばりの大編成ではなく、通常の編成にコントラファゴットやトライアングルが加わった程度であり、これはブラームスもオーケストラ曲で採用している編成である。また第4楽章では低弦のピツィカートに乗り、例えばベートーヴェンの「第九」のフィナーレのごとく今までの楽章が幻のごとく回想される長い序奏部を経て、これまたブラームスの『交響曲第1番』のフィナーレを彷彿させる歓喜の主題が弦楽器に現れる( 譜例3 )。
 このように伝統的な手法が踏襲される一方で、オーケストレーション一つをとっても、その壮大さやトライアングルの過剰なまでの使用頻度(なおトライアングルへの偏愛は、ロットと同じく精神の闇に沈んだシューマンも自作の『交響曲第1番』の中で試みていたもの)は独特のものだ。例えば第1楽章の第1主題( 譜例1a・b )がブルックナーの交響曲のごとくトランペットとホルンのソロによって呼び交わされ、ワーグナーばりの弦楽器のアルペッジオがそれを彩るなどは、まさにロットならではの手法だろう。しかも歌謡的な第1主題がやがて不安定な和声の中に迷い込み、調性と無調とのあわいを漂う第2主題が出現( 譜例2 )するあたりは、新時代の交響曲と呼ぶにふさわしい。
 第2楽章も、例えばマーラーの交響曲第3番のフィナーレに先駆けたといえる緩徐楽章であり、第3楽章はブルックナー風の「狩の」スケルツォでありながら、百鬼夜行をイメージさせるグロテスクな響きが続出する。長大な第4楽章の展開部では、ブルックナーからの薫陶をうけ、みずからオルガニストとして働いていただけのことはあって複雑なフーガが展開されるも、fffff ( ! )で頂点を迎えた瞬間、今度はppppp( ! )にまで音量が減衰するという極端なまでの音量指定が出現。コーダでは第1~第4楽章の主題が同時演奏されるというブルックナー風のクライマックスを築きつつ、最後は第1楽章冒頭のアルペッジオを弦楽器が奏でる中、全てが穏やかに消えてゆくという意外な結末が待っている。
 なおロットの親友であり、彼から大きな影響を受けたマーラーは、この交響曲について次のように述べている。「私はよく分かっている。この作品が…誇張ではなく…彼を新しい交響曲の創設者へと押し上げたこということを。」
 


 
譜例作成:森 洋久                        
 

 

【楽器構成】
『〈ジュリアス・シーザー〉への前奏曲』
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、
トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、弦五部
 
『管弦楽のための前奏曲 ホ長調』
フルート2、ピッコロ1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、
トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部
 
『管弦楽のための組曲 ホ長調』
フルート2、ピッコロ1(楽譜の指定では2本だが本日は1本で演奏)、オーボエ2、
クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、
ティンパニ、弦五部
 
『交響曲第1番 ホ長調』
フルート2、ピッコロ1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、
コントラファゴット1、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、
ティンパニ、トライアングル1、弦五部

〔ロット年表〕
1858年
 8月5日女優の私生児としてウィーンに生まれる
1860年
 実母の死
1862年
 俳優である実父の再婚により、正式に息子として認知される
1872年
 継母の死
1874年
 実父の怪我で生活困窮。ウィーン楽友協会音楽院に入学(オルガンをブルックナーに師事)
1875年
 ウィーン・アカデミー・ワーグナー協会に入会
1876年
 実父の死。ピアリスト修道院附属教会オルガニストに就任。バイロイト音楽祭を訪問。『管弦楽のための前奏曲 ホ長調』作曲
1877年
 『〈ジュリアス・シーザー〉への前奏曲』作曲
1878年
 『管弦楽のための組曲 ホ長調』、『交響曲第1番』第1楽章を作曲。ウィーン楽友協会音楽院を卒業するものの、卒業作曲コンクールには落選。『交響曲第1番』の第2楽章以降の作曲に着手。ピアリスト修道院附属教会オルガニストを辞任し無職に
1879年
 ウィーン・アカデミー・ワーグナー協会を退会
1880年
 『交響曲第1番』完成。ベートーヴェン作曲コンクールおよび芸術家奨学金コンクールに応募。遺言書を作成。ブラームスを訪問。ミュールーズの合唱協会の指揮者のポストを受け容れるが、同地へ向かう列車の中で発狂。ウィーン一般病院精神科に入院
1881年
 ニーダーエスタライヒ州精神病院に転送。芸術家奨学金の授与が決定されるも、ロットがこれを受給することはなかった。
1884年
 6月25日ニーダーエスタライヒ州精神病院で結核のため死去

 

(C)小宮 正安(ヨーロッパ文化史研究家 横浜国立大学准教授)

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