大阪交響楽団 2013年度 定期演奏会 曲目解説

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2013年度 定期演奏会 曲目解説

 
 
第182回 定期演奏会   1月24日(金)
下野 竜也
川久保 賜紀

≪捻ったウィーンプログラム≫

2014年1月24日(金)19時00分開演 

 

  ウィーンは現在、決して大きいとは言えないオーストリア共和国の首都である。しかし、オーストリアは約100年前まで、名門ハプスブルク家が君臨する大帝国だった。オーストリア・ハンガリー帝国という名称からわかるように、その領土はハンガリーやチェコといった東ヨーロッパからイタリアの一部も含み、押しも押されぬヨーロッパの大国のひとつだったのだ。そのうえ各国王家との婚姻関係を作ることも巧みで、たとえばかのフランス王妃マリー・アントワネットにしても、ハプスブルク家出身の女性だった。
 そういう大国の首都だったから、ウィーンにはさまざまな才能ある人間が集まった。芸術や学問に限らず、政治、商業…どんな分野においても一旗揚げようという人間は、帝国首都を目指したのである。
 多くの人や物や金が集まるということは、いろいろな衝突や矛盾が生じるということでもある。ウィーンが音楽や美術や医学や哲学など多くのジャンルで最先端をゆく町となることができたのはそれが理由である。ことに19世紀の後半から20世紀初頭にかけては名だたる人物が次々に輩出された。画家のグスタフ・クリムト(1862-1918)、精神分析学者のジークムント・フロイト(1856-1939)哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)…。もちろん、アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)にしてもそうしたひとりに他ならない。
 シェーンベルクは、西洋音楽の基本中の基本である調性を否定し、無調音楽からやがては12音音楽へと進んだ大作曲家だが、両親はチェコやハンガリー系であり、またかつユダヤ人であった。こうした複雑な家系は、一種の多民族国家であるオーストリアの首都では普通のことだったし、文化人の中にはユダヤ人も多かった。ちなみにシェーンベルクはウィーンの常識に従ってカトリックの信者であったが、のちにベルリンに移住するとプロテスタントとなり(ベルリンはユグノー教徒という反カトリック宗派を受け入れたことで知られている町でもある)、さらにはユダヤ教徒に改宗した。しばしば宗教的な題材を作曲のために用いた。
 シェーンベルクは20代から30代にかけて伝統的な調性を持つロマンティックな音楽を書いていた。しばしば演奏される『浄夜』や、超大作として知られる『グレの歌』はその典型である。グスタフ・マーラー(1860-1911)やアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)といった後期ロマン派の大家たちとも親しかった。
 だが、シェーンベルクの書法はどんどん前衛的になっていった。マーラーが、「自分にはもはやシェーンベルクを理解できないが、たぶん若い彼のほうが正しいのだろう」と評したことはよく知られている。
 シェーンベルクは特に半音階的進行を好んで使ったが、こうなると、常套的な調性概念を踏み越えた作品を書くようになるのは時間の問題だった。1909年頃から、彼は完全に無調のピアノ曲や歌曲を作るようになった。と同時に、彼の作品が一般的な聴衆、それどころかプロの音楽家からも理解されなくなるのも当然だった。
 彼が無調音楽に傾倒した時代は、空前の規模の戦争、第一次世界大戦が勃発するほんの少し前のことだった。この頃の代表作、『月に憑かれたピエロ』(1912年)は、無調によって得体の知れない不安を表現している。
 1914年に始まった第一次世界大戦が終わったのが1918年のことである。巨大なオーストリア・ハンガリー帝国は消滅した。その直後から、シェーンベルクは、戦争で壊された秩序を再び立て直すかのように、12音技法の時代に入った。シェーンベルクと並ぶ20世紀音楽の大作曲家のひとり、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)が、やはり第一次世界大戦の直前に『春の祭典』という既存の美意識を覆すような音楽を書き、戦後には一転して新古典主義の音楽を書いたのとパラレルな現象とも見える。
 やがて1930年代になるとナチがドイツの政権につき、ユダヤ人を弾圧する時代がやってきた。ナチは自分たちの気に入らない芸術や文化を抹殺することに熱心であり、無調音楽、12音音楽もその例に漏れなかった。ベルリンで教職にあったシェーンベルクは最終的にはアメリカに逃れ、ヨーロッパから遠く離れた西海岸のカリフォルニア州に居を定めた。世を去ったのは1951年、ロサンゼルスでのことだった。
ヴァイオリン協奏曲は、アメリカに移住したのちに書かれた最初の本格的な作品であり、12音技法によって書かれている。演奏はきわめて難しく、長い間、完璧な演奏は不可能とまで言われていた。作曲者の存命中には希有の名手として知られているヤッシャ・ハイフェッツ(1901-87)の演奏が期待されていたが、19世紀的なテクニックや音楽性の持ち主であるハイフェッツにとって、この曲はあまりに新しすぎ、レパートリーとなることはなかった。
 シェーンベルクは、無調や12音技法といった新たな音楽の可能性を試みはしたが、形式的には案外保守的だった。この協奏曲も、旧来からの常識に従って急緩急の3つの楽章から構成されているし、それぞれの楽章の構成も意外に伝統的な意識に基づいている。
 第1楽章は、ABA’という形を取る。また、ロマン主義の協奏曲と同様、独奏者が技巧や表現力を誇示するカデンツァもある。開始からまもなくして独奏ヴァイオリンが示すA,B、Es,H,E、Fis,C,Des,G、As,D,F(ドイツ音名)という一連の音が、12音技法において重要ないわゆる「音列」で、それ以前の音楽においては主題と呼ばれるものに相当する。
 第2楽章は、ABAB’A’という形を取る。
 第3楽章はロンド形式。最後に、この曲に登場した重要な素材が再現される。シェーンベルクは若き日にヨハネス・ブラームス(1833-97)の音楽を特に愛好していたが、確かにこのような緻密でしっかりした形式への志向は、ブラームスにも通じるものがある。
 1936年に完成され、初演は1940年にルイス・クラスナー独奏、レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団によって行われた。なおこれに先立つこと4年前、クラスナーはシェーンベルクの弟子であり盟友でもあったアルバン・ベルク(1885-1935)のヴァイオリン協奏曲の初演も行っている。
 今日、シェーンベルクが推し進めた無調音楽や12音音楽を否定し、調性への回帰を主張する音楽家は決して少なくない。しかしながら、12音音楽が生まれた背景には、ヨーロッパにおいて時間をかけて形成された常識や伝統が見る間に崩壊していくという、稀に見る激動の時代があったことを私たちは忘れてはならないだろう。何よりも、曲頭で示した12の音の配置から30分強の密度が高い作品を作り出したシェーンベルクの創意と意志は凡庸な芸術家にはとうてい不可能な力業だった。
 
 ところで、シェーンベルクは、ことにウィーンの保守的な大衆による拒絶をものともせずに新しい音楽の世界を切り開こうとしたわけだが、その大衆が好んでいたのは、やはり甘美で聴きやすい音楽であり、また感傷的な内容の舞台作品だった。特にオペレッタと呼ばれる軽い内容の喜歌劇は、ウィーンで非常に人気があった。風刺的な要素を含みながらも、基本的には保守的な大衆の心情にかなっていたからである。
 そのウィーンのオペレッタを代表する作曲家のひとりが、フランツ・フォン・スッペ(1819-95)だ。いわゆる「ウィンナ・オペレッタの金の時代」と呼ばれる状況は、スッペやヨハン・シュトラウス2世(1825-99)の活躍によってもたらされたものだった。彼らは、ドイツ生まれのジャック・オッフェンバック(1819-80)がパリで大人気を博していたことに影響を受け、従来のオペラよりも短く軽く、明快な旋律を主とした喜劇的な作品を次々に書いたのだった。別の表現をするなら、19世紀から20世紀にかけてウィーンの音楽は、一方ではひたすら高度で実験的な方向へ、他方では甘美なオペレッタ的なものへと分裂していったと言えよう。
 スッペは1819年にダルマチアに生まれた。これはクロアチアのアドリア海地域で、歴史的にオーストリアと関係が深い。父親はベルギー系で、母親はウィーン出身だった。名前からもわかるように貴族の血を引いていて、本来の名は、フランチェスコ・エゼキエーレ・エルメネジルド・カヴァリエーレ(騎士)・スッペ・デメッリというたいへん長いものだった。
 スッペは幼少時から教会の聖歌隊で歌い、またさまざまな楽器に触れていたが、父親は当時の常識に従って息子が法律家になることを望み、イタリアのパドヴァ大学に入学させた。しかし、スッペが興味を持っていたのは法律よりも音楽であり、熱心にオペラに通ったという。
 父の死後、スッペはウィーンに移り、いったんは医学を学び始めたものの、すぐに止め、本格的に音楽の勉強を始めた。そして、21才でヨーゼフシュタット劇場の楽士長になった。以後、さまざまなジャンルで作曲し、特に膨大な数の舞台作品を書いたが、今日上演されるのはほとんど『ボッカチオ』のみであろう。それ以外には、このコンサートのように、序曲のみがときたま演奏される。
 これらの序曲は、非常に性格がはっきりした音楽をつないだ接続曲のようなもので、華々しく、生き生きしていて、演奏効果に富んでいる。何より感情豊か、雰囲気豊かな旋律が、スッペが天性の劇場音楽家だったことを証明している。楽器編成は2管編成(管楽器が各種2本ずつ)を基本としつつ、金管楽器や打楽器などを追加している。当時の劇場の様子からして比較的小さなオーケストラで演奏されることがほとんどだったはずだが、大編成で演奏しても十分魅力的である。
 『ウィーンの朝、昼、晩』は1844年にウィーンで初演された、歌付きの喜劇。序曲は観客の注意を引きつけるような鮮烈な一撃で開始されるが、まもなく一転してチェロ独奏がメランコリックな旋律を朗々と歌うのが印象的だ。ウィーンで人気が高かったロッシーニ風の快活な楽想も登場する。
 『快盗団』は1867年にウィーンで初演された3幕もの(初演時は1幕)のオペレッタ。19世紀初頭のナポリ湾の小さな港が舞台。にぎにぎしい金管楽器のファンファーレで始まる。いたずらっぽい楽想が複数姿を現す、陽気な気分が溢れた作品だ。
 スッペの作品としては今日比較的名が知られている『美しいガラテア』は、1865年にベルリンで初演された1幕ものの喜歌劇。舞台は古代ギリシア時代のキプロスである。彫刻家のピグマリオンが美女の彫刻を作りあげ、あまりの美しさゆえに、これが生きていればとヴィーナスに願ったところ、本当に生命が宿る。しかしこの美女ガラテアは男と宝石が大好き。怒ったピグマリオンが祈ると、再び石像に戻ってしまう。
 その序曲は、にぎにぎしく開始され、華やかなワルツあり、軽妙で飛び跳ねるような部分あり、耽美的な瞬間もありと実に変化に富んでおり、約1時間の短い喜歌劇にはもったいないほどだ。
 『スペードの女王』は1864年にグラーツで初演された2幕もののオペレッタで、その2年前に書かれた1幕ものの『トランプ占いの女』を書き換えた作品であるが、残念ながら成功は得られなかった。「スペードの女王」と言えばロシアの文豪アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)の有名な作品が思い起こされるが、スッペの作品がプーシキンと何らかの関係があるかは明らかではない。
 序曲は滑稽な雰囲気で開始され、ドラマティックな起伏を経たのち、軽やかなポルカ調の音楽になる。
 スッペのこのような音楽を好んだのはウィーンの「市民」だった。近代化が進み、現代にも似た都市生活ができあがっていった時代において、都市のマジョリティたる市民を喜ばせる音楽が必要とされた。そうした音楽が、今なおたとえばニューイヤー・コンサートで喝采を浴びるのは、不思議なことではなかろう。
 
                                           (c)許 光俊 (音楽評論家)(無断転載を禁ずる)

 

 

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