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2013年度 定期演奏会 曲目解説

 
 
第183回 定期演奏会   2月28日(金)
寺岡 清高
クリストファー・ヒンターフーバー
譜例1・譜例2
譜例3・譜例4

 

 ≪マーラーのライヴァル“部下フランツ・シュミット”≫

2014年2月28日(金)19時00分開演

  

 

 元々は『管弦楽伴奏付きのピアノのための幻想曲』というコンセプトから生まれた。それが2曲からなる『未完のロマンティック・オペラの間奏曲』へと発展し、1903126日、ウィーン楽友協会大ホールで催されたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で、エルンスト・フォン・シューフ18461914)の指揮の下に初演された…。

 これが、『歌劇〈ノートル・ダム〉』の『間奏曲』と『謝肉祭の音楽』の誕生から初演へ至る経緯なのだが、歌劇への正式な着手は1904年であって、完成は1906年のこと。おぼろげな構想こそ1902年頃から存在したようだが、実際には歌劇に先立つ形で『間奏曲』と『謝肉祭の音楽』が先に出来ていたことになる。つまりはこの2曲からオペラ全体が構想されていったという異例の展開なのだが、ここからして既に、声楽よりも器楽の分野で大きな功績を残したシュミットの姿が垣間見える。

 『歌劇〈ノートル・ダム〉』の成立にあたっては、『前奏曲』が新たに書かれた他、『謝肉祭の音楽』は第1幕第2場の大詰めで、合唱団とともに管弦楽が演奏する曲となり、『間奏曲』は第3場への場面転換で演奏される「間奏曲」の後半部分に転用された。歌劇の筋書きはヴィクトル・ユーゴー(180285)の小説『ノートルダム・ド・パリ』に基づき、ロマの美女エスメラルダを巡る男たちの愛憎が描かれてゆくのだが、『間奏曲』をはじめ ロマ風の情熱や哀愁がたっぷりと具わっているのが特徴だ。(シュミットが生を受けたブラティスラヴァは、現在はスロヴァキアの首都だが、当時はハンガリー王国…さらにハンガリー王国は隣国のオーストリアとともに「オーストリア=ハンガリー二重帝国」を形成していた…の一都市であり、この地域を中心に生活するロマの音楽を耳にできた。)

 なお『歌劇〈ノートル・ダム〉』が初演されたのは、1914年のこと。場所はウィーン宮廷歌劇場、指揮はフランツ・シャルク(18631931)だった。完成から随分経ってからの初演だが、この作品は同宮廷歌劇場の監督だったグスタフ・マーラー(18601911 監督在任期間18971907)、さらにその後任であるフェーリクス・ワインガルトナー(18631942 監督在任期間190711)から、立て続けに上演拒否に合っていたのである。なおシュミットはマーラー嫌いを公言していたが、この事件は決定的な要因となったようだ。そうでなくてもシュミットは若き日に同歌劇場管弦楽団でチェリストを務めており、マーラーは彼の上司だったのだが、2人は人間関係においてうまが合わなかったのだから。

  『歌劇〈ノートル・ダム〉』が初演された年、ヨーロッパ諸国は第一次世界大戦へと突入。1918年、戦争そのものは終結するが、オーストリア=ハンガリー帝国は敗戦を機に崩壊した。帝国の諸地域では各民族が自分たちの国を独立させるいっぽう、帝国の中心地であったオーストリアはオーストリア共和国として再出発するも、混乱と貧困が渦巻いていた。

 当時シュミットは、ウィーン音楽アカデミー(現在のウィーン音楽大学の前身)のピアノ科教授のポストにあった。またそれほどまでに彼は優れたピアニストでもあったのだが、そのようなシュミットに対し、ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン(1887 1961)から作曲依頼が舞い込む。彼は第一次世界大戦で右腕を失ったため、左手のためのピアノ曲を書いてくれるよう、著名作曲家に働きかけている最中だった。こうして1923年に誕生したのが、ピアノと管弦楽のための『ベートーヴェンの主題による協奏的変奏曲』。初演は192422日、ウィーン・コンツェルトハウスにおいて、ヴィトゲンシュタインのピアノ、ユリウス・プリューヴァー〈18741943〉の指揮、ウィーン交響楽団の演奏による。

 変奏曲といえば、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(17701827)が新たな局面を切り拓き、ヨハネス・ ブラームス(183397)がその道をさらに推し進め… といった具合に、ウィーンの音楽的伝統において大きな意味を持つジャンルだった。またその中で育ったシュミット自身、変奏曲を作曲することにきわめて熱心だった。当作品も、長大な序奏(これも実は主題を変奏したものである)、主題、そして大小12の変奏が続く長大な構成となっている。

 ただし、ベートーヴェンから想像される英雄的な内容を期待していると肩透かしを喰うだろう。序奏はきわめて寂寞とした表情から始まるいっぽう、主題はそれを軽くいなすかのように、ベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第5番〈春〉』の第3楽章に登場する明るいテーマ〔譜例1 これはベートーヴェンのオリジナルに基づくもの〕が引用されているからだ。だが全体としてはどことなく忙しなく引き攣ったアレンジとなっており、最終変奏に至ってはフーガによって巨大な音の伽藍が築かれるも、最後は全てが消え入るように終わってしまう。ヴィトゲンシュタインが戦地で受けた傷のごとく、第一次世界大戦の悪夢が癒えぬ時代を色濃く映し出した作品に他ならない。 

 第一次世界大戦終結から10年を経た1928年、ウィーンでは一大イヴェントがおこなわれる。この街に生まれこの街に死んだ「オーストリアの作曲家」フランツ・シューベルト(17971828)の没後100年を記念し、シューベルト祭が開かれたのだ。これは、戦争によって傷ついたオーストリアの威信を回復させようという国家的な目論みも加わり、きわめて大々的な催しとなった。

 

 そうした動きと関連しておこなわれたのが、「国際シューベルト作曲コンクール1928」である。これはシューベルトに縁のウィーン楽友協会と、イギリスならびにアメリカのレコード会社であるコロムビア・グラモフォン・カンパニーの共催による企画だった。(音楽を再生装置によって聴くという習慣が定着していなかった当時、いわば新興企業であったレコード会社が箔付けの狙いもあって、「音楽の都ウィーン」の象徴ともいえる楽友協会を経済的に支援する形でタイアップが図られたのである。)

 なおコンクールのそもそもの狙いは、第1・第2楽章のみでシューベルトが筆を擱いた『交響曲第78)番〈未完成〉』(いわゆる「未完成交響曲」)を完成させることだったのだが、二転三転した結果、「シューベルトの抒情性に富んだ才能とアイディアを賛美し、それらに捧げられるにふさわしい、単一もしくは複数の楽章からなる交響的作品」が募られることとなる。予選ならびに本選には、欧米各地を代表する高名な作曲家や演奏家が審査員として名を連ね、応募者も彼らに勝るとも劣らぬ錚々たる顔ぶれだった。

 その中でオーストリア代表として本選に臨んだのがシュミットであり、この時彼がエントリーした作品が、1927年から28年にかけて書かれた『交響曲第3番イ長調』である。当時彼は、ウィーン芸術専門学院院長として音楽界の重鎮的存在であり、コンクール入賞の本命と見なされていた。だが1位に輝いたのは、スウェーデンのクルト・アッテルベリ〈18871974〉の『交響曲第6番』であり、シュミットの作品は2位に終わった。(『交響曲第3番』の初演は、楽友協会大ホールで1928122日に催されたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で、フランツ・シャルク〈18631931〉の指揮による。この演奏会では、アッテルベリの『交響曲第6番』のオーストリア初演もおこなわれた。)

 当作品は4曲存在するシュミットの交響曲の中では、比較的穏やかな表情が特徴である。シューベルトを念頭においたコンクールの応募作品であったこともその理由だろうし、編成そのものも巨大志向のシュミットには珍しく、シューベルトの「未完成交響曲」 に準じている(ただしホルンは4本)。だがそんな表面的な事柄とは対照的に、ここにもまた第一次世界大戦のもたらした衝撃が尾を引きずっているとはいえないか。

 例えばソナタ形式に基づく第1楽章。たしかに第1主題〔譜例2〕をはじめ部分々々をとれば、シューベルト的な歌謡性が感じられるものの、和声的にも構造的にも、全体がどこに流れどこに落ち着くのか判然としない不安感(それは、シューベルトの交響曲に具わったそうした要素を、さらに濃厚にしたものともいえる)がつきまとう。シュミットはオルガニストとしてもすぐれた腕前を持ち、即興演奏にも秀でていたが、一つの旋律を拡大したり圧縮したり、転調を執拗に続けてゆく技も手伝い、その感はいっそう増してゆく。

 それがさらに顕著になるのが、第2楽章。文字通りシュミット得意の変奏曲に基づいており(主題は〔譜例3〕)、ウィーン作曲界の先達であるヨハネス・ブラームス(183397)の『交響曲第4番』第4楽章でも用いられたシャコンヌも彷彿させる。第3楽章はスケルツォであり、第2楽章の主題を変形させたものだが、所々で金管楽器が炸裂し、ティンパニが破壊的な音を出すなど、音楽院時代の師の1人だったアントン・ブルックナー(182496)の交響曲におけるような百鬼夜行的なスケルツォに他ならない。

 第4楽章は序奏〔譜例4〕に続き、6/8拍子で行進曲風の主部が展開されてゆくが、依然として短調か長調か判然としない不透明感、執拗なまでに蠢く低音部の上に時折剥き出しになる破滅感を宿した曲想など、聴く者の中に不安を生じさせる要素が満ちている。最後は伝統的な交響曲の常のごとく、一応のところ輝かしい終結部が訪れるものの、解放感や勝利とは異なる、あくまでも黒々とした苦さが根底にはりついたフィナーレだ。  

 

 

[楽器編成]

『歌劇「ノートル・ダム」より 前奏曲・間奏曲・謝肉祭の音楽』

フルート3(ピッコロ1持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、

ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン4、トランペット3、

トロンボーン3、ティンパニ、シンバル、タムタム、ハープ2、弦五部

 

『ベートーヴェンの主題による協奏的変奏曲』

フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、

トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、タンバリン、弦五部 

 

『交響曲 第3番 イ長調』 

フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、

トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部

 

 [フランツ・シュミット年譜]

1874年 12月22日プレスブルク(現在のブラティスラヴァ)に生まれる
1888年 家族とともにウィーンへ移住、楽友協会音楽院へ入学
  チェロ・作曲(師はブルックナー、フックス)を学ぶ
1896年 楽友協会音楽院を最優秀の成績で卒業<、
  ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団にチェリストとして入団し、
  同時に同管弦楽団の主組織であるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも入団
1897年 ブラームスが死去、マーラーがウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任(1907年まで)
1899年 カロリーネと結婚
1901年 楽友協会音楽院で教鞭を取り始める
1903年 『歌劇〈ノートル・ダム〉間奏曲・謝肉祭の音楽』
   (原題は『未完のロマンティック・オペラの間奏曲』)初演
1911年 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を辞任、
  音楽アカデミーでチェロや作曲を教えるようになる
1914年 ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団を退職、作曲・指揮・独奏・
  教育等に幅広く活躍、『歌劇〈ノートル・ダム〉』初演、第一次世界大戦勃発
1918年 第一次世界大戦終結
1919年 カロリーネが精神病院に収監される
1922年 カロリーネと離婚
1923年 『ベートーヴェンの主題による協奏的変奏曲』作曲、教え子のマルガレーテと再婚
1925年 ウィーン音楽アカデミー(前身は楽友協会音楽院)の校長に就任(1927年まで)
1927年 『交響曲第3番』に着手。ウィーン芸術専門学院(ウィーン音楽アカデミーの
  大学院コースに相当する教育機関)の校長に就任(1931年まで)
1928年 『交響曲第3番』完成、シューベルト没後100年記念作曲コンクールで第2位となる
1938年 ナチスドイツがオーストリアを併合
1939年 2月11日に死去 享年65
           

(C) 小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家・横浜国立大学准教授)(無断転載を禁じる) 

譜例作成:森洋久(文中の譜例は上部ソリスト写真の下にリンクしています。)

 

 

 

 

 

 

 

『歌劇〈ノートル・ダム〉』より『前奏曲』、『間奏曲』、『謝肉祭の音楽』

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